多様性の御蔭で同じ経験はない、、同じ所は二度と来ない。得るものも捨てるものも、好きも嫌いも違う、、。
こんな学びでもしていないと、、好きでなければ嫌い!で終わり。まそれもいいけど(;・∀・)。
仕組みを知る事で漠然としていたものが明確な意図があるかのようにわたしの中で動き出す。
自分のベース、成り立ちを思わせるホロスコープを見て、大きな何か?がある事を知る機会にになっていく。
今は自分のホロスコープは読めるようになれている人も多い。習い始めM先生も言っていた・・自分のホロスコープ読めるようになればいい・・。
知るは知識だけど、、それは教養の一つになっていく・・。
誰も教えてくれない、母も🤱父も親戚も、、。 それより大きな存在に包まれて生きている。 事実は事実として在って、尚も在り続けていくけど、、。
人によっては、その陰になりを鳴りを潜めて生きて行く。何かあるだろうけど、手掛かりがない、近くにあっても手が出ない、そんな歯がゆさ。
もわもわして、、イライラして、、誰か悪くするしかないないような、生きるってこんなストレスの中?いい事など心から起るようには思えないような時間、、
そこに愛があり、無が在り、手を伸ばせばいいだけのことのように、、
事実、萎縮して、それが身体の筋肉が縮んで伸びない、、って事は実は大事。・・当然身体の一部、頭の中も委縮しているだろうから(;゚Д゚)
息が吸うと吐くの二つを行き来するけど、
肉体も綿密な成り立ちで出来て、弛緩と緊張の二つを繰返している。
スムーズに循環していれば意識もない、、。
硬張りは、緊張して弛まないので、身体の一部にずっと緊張を抱えている、つまり緊張の指令をずっと筋肉に送り続けている筋紡錘へと。
精神だ!こころだ!とばかり答えを求めて負担かけてもどうにもならず、 身体の弾力の無さに理由があったり。
魂は一つなのに分別して考えて、分担して追求したところで返って来るのは擦り合わせ、そこは自分だけ出来る事💦
あゝ持ち主の頭の悪さが繁栄しているだけ。
こころと言え
身体と言え
離れている以上また差に泣くように手に負えない。
身体から働きかけた方がいい、、重い肉体!死んだら焼いて無くなる身体の
数ミリズレで歩けなくなるそんな代物だから。
こころと言えば高尚なもののように扱われ身体を低く見るのはどうか?