今から35~6年前、私はヤマハDX250に乗っていた。DXといってもデラックスという意味ではなく、当時ヤマハの社内コードで250ccクラスはDナンバーで、ロードスポーツがXナンバーを付けていたのだ。2サイクルピストンバルブ2気筒で鋭い加速が信条の、後の国産レーサーレプリカ第一弾となるRZ250の遠い先祖となる機体だ。
当時高校生であった私は中古でこのDX250を手にいれ、ボロなりに磨きあげて乗り回していた。時を同じくして、悪友がその当時ガンガンのニューモデルであるホンダCB500を新車で手にいれ、私は随分うらやましかった。CB500はOHCパラレルフォーの素晴らしくニュートラルな操縦性能をもった新鋭機で、今でこそ4気筒何ぞ当たり前の存在であるが、当時はパラレルフォーで野獣のような排気音をあげて道を走り去ると、ほとんどの人が驚愕の面持ちでその後ろ姿を振り返るほどの新鋭機であった。
私はこのCB500と友人を、DX250の鋭い走りでぶっこ抜くことをいつも夢見ていたが、タイトなコーナーのみ優位に立てることができるだけで、なかなかとことんひれ伏せさせることができなかった。そんな日々の中、昔みた映画で、車で海岸沿いをチキンラン勝負をしているのがあって、私は悪友によく、「お前のくそ重たいCB500じゃ、俺のDX250とチキンラン勝負をしたら10の一つも勝てる可能性はないね」という噛まし犬のような挑発をしていた。ところが、なんとある日乗ってやろうという答えが返ってきてしまったのだ。あとで聞いたところによると、女の子に振られて、ちょっとやさぐれた気分になっていたらしい。
私はまさか受けらるはずのない挑発と思っていたので、馬鹿なことをいった自分に後悔したが、17歳の自負心は取りやめる賢い選択肢をもたなかった。
チキンランのコースは幕張~検見川間の埋め立て海岸の護岸コンクリートだった。当時、浦安から千葉市までの広大な東京湾沿いの海岸は、海辺から1k位沖合まで埋め立てている最中で、幕張のあたりも本来国道沿いの海岸が1500mくらい沖合まで埋め立てられていて、地面が固まる間の処理として広大な荒野が広がっていた。国道沿いには、海はもうなくなったのに、道路沿いにあさり売りの屋台や、海の家が名残を惜しむように何件も連なっていた頃だ。
その護岸コンクリートは広大な荒れ地の埋立地の最も海側にある、幅5mの直線道路のようなものが、3段の300mmの段差で長大なひな壇のように、1500m続いている、、ちょっと潮風を感じながら単車を走らせるには絶好の小さな飛行場にも見えるところだった。もちろん立ち入り禁止区域であったが(埋立地全部が立ち入り禁止だった)、私たちのようなチンピラ若僧や釣りを楽しむサンデーフィッシャーがよく訪れていた。
さて、私達は二人でその私たちだけのコースに単車を乗り入れ、どうしてやめることができなかったか、よく判らずに悲壮な気分で、格好付けでタバコを一本吸い、スタートラインに立った。
スタートは若干私が遅れたが、2サイクルの鋭い加速でDX250がCB500を追い越し、また排気量の差でCB500がDX250の前に立った。30秒はあっという間に過ぎ、デッドラインはすぐ近くに見えてきた。このコースの終わりは突然海になっていて、花見川の海にそそぐ河口が暗い水面を見せていた。口から心臓が出るような恐怖を覚えたが、ブレーキをかけるのは先行したCB500の方が若干早かったように思う。まだディスクブレーキがない時代のDXはドラムブレーキをフルブレーキングして制動をかけたが、最後の最後で恐怖に耐えられなくなった私はリアブレーキをロックさせて転倒する道を選んだ。コンクリートに放り出された私は、腹這いになってコンクリート面を激しく滑りながら、俺は死んだ!と頭の中でリフレインしていた。ずいぶん長いあいだ滑っていたような気がしたが、瞬きをした時間とそう大差はなかっただろう。DX250は滑りながら河口の海に、6~7mダイブして派手な水音とともに沈んでいった。私は2mくらいダイブして泳ぐことになったと思う。結局私は擦り傷と濡れ鼠になっただけで、家族にも知られずに帰ることができた。CB500はその重い車重とディスクブレーキ装備が、短い制動距離となってダイブを免れたようだ。
今ではあの護岸コンクリートも取り壊されて、人口海浜となり、近くを走る道路は一時ナンパ道路として有名になったらしい。DX250は浚渫されていなければ、今でも幕張海岸のどこかに沈んでいるかもしれない。
当時の悪友はすっかり人の良さそうなジジイになったが、今でもあのチキンレースにどっちが勝ったか、意見の統一はできそうにない。