今日の川柳

 

死ぬのなら このままそっと あの世まで タカオ

 

日本一 仲良き夫婦 とろろめし タカオ

 

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ウェブック

・苫米地 義三の生涯

ようこそ、苫米地義三の世界へ。

このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。

では、気長にお読みください。

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そこで、突然肋膜炎に

なってしまったのである。


卒業試験どころではない。


すぐに、札幌病院に運ばれてしまった。

粗食と過労が災いしての結果であった。

これまで病気などしたことのない

これはまた過酷な運命の試練

だったのに違いない。

病院に寝ていても思うのは

卒業試験の結果だけだった。

三学期の試験を受けないで卒業するとは

考えられないのである。

ところが中学校では四十一名のうち

十一番で卒業させたのであった。

それは二学期までの成績が

ずば抜けて良かった為であろう。

これが義三、二十一歳の春であった。

病気も手当てがよかったせいで、

一ヶ月ほどの治療で退院できたのであった。

いよいよ、次の段階に

進まなければなければならない。

この時、彼は、

工業界に身を投じようと

決心していたのであった。

それには、高等学校から大学に

進む道と、工業学校に進む道があった。

そこで彼は、東京高等工業と、

仙台の第二高等学校へ

入学願書を出したのであった。

東京高等工業学校は都合のいいことに

そのころ札幌でも試験を行なって

いたので、受験の経験にも

なるだろうとこれを受けることにし、

さらに四月に仙台で行われる

二高の試験を受けようと

きめたのであったのです。

工高の試験は四月であった。

彼はそれを済まして父母のいる

農場へ帰っていったのであった。

相変わらずの長旅で徒歩の旅であった。

中学を卒業して帰った彼を父母は

相好を崩して喜び迎えた。

ここでまた春の農繁期を農場の

手伝いをして過ごしたのである。

最も夜だけは受験準備に

勉強したのであった。

この頃は、父の開墾もかなり進んでいて

水田でさえも十数町歩も開かれ、

これに力を得て詳しくは、

農業を手伝いができるのであった。

この夏は、

寿都町で徴兵検査を受けた。

結果は第一乙種合格で

入営しなくとも

いいことになったのである。


これで、彼の工業界への船出は確定したのであった。

 

つづく