今日の川柳

 

短命県 返上宣言 シバレルネ~ タカオ

 

寝ていても 団扇(うちわ)の動く 親心 タカオ

 

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ウェブック

・苫米地 義三の生涯

ようこそ、苫米地義三の世界へ。

このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。

では、気長にお読みください。

 

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義三の母タケ

>>>>勉強がはじまったのであった。>>>>

 

 幸いにも、

小川二郎さんは彼のよい理解者であった。

援助してくれたのである。

学校から帰れば店のことを手伝い、

また種苗店の農作業にも手伝いをした。

その時の賃金は一時間、二銭であった。

それでも春から夏にかけて、

日の長い時は四五時間は働けたので、

八銭から十銭の収入を得た。

また学校長に頼んで学校の書類の

浄書をやらせて頂いたのであった。

 しかし月三円そこそこの収入では、

食べて学費を払うには

どうしても足りなかったのである。

そこで生活費を切り詰めなければならない。

まずい外国米まで食べることにしたのであった。

おかずもごま塩に味噌汁だけの日が何日も続いたのであった。

それでも安心してはおられなかったのでる。

そこで四年生の時、牛乳配達をやることにしたのであった。



 彼の苦学に同情して

牛乳を買ってくれる家が

数件できたからである。

それでも配達にはかなりの

時間がかかってしまう。

牛乳配達第一日目のことであった。

暗いうちからおきて

市街で西北二十町の

札幌農学校付属農園にいって

牛乳を払い下げて、

牛乳缶に入れてもらい各家庭に配布した。

それが終わってから学校に行ったのであった。

ところが授業が始まって

一時間目か二時間目の頃、

今朝配達した牛乳が不良品で

凝固して飲めないという苦情が、

当時サッポロビール会社の

植村澄三郎氏宅から

小川さんに伝えられ、

小川さんから使いを持って

学校へと知らされたのであった。

これには彼も驚いた、

開業第一日目で牛乳が

不良品だったとは

せっかく同情してくれた

お客さんに申しわけがない

と早速農園に駆けつけ、

わけを話してまた新しい牛乳を

貰って再配達したのであった。

しかし、その他では別に苦情は

なかったのでほっとしたのであった。

これで一息ついたのであった。

これはいい教訓にはなったのでした。

何事にも最善を尽くす

ということを学んだのであった。

実物教育を得たのである。

 吹けば飛ぶ様な掘っ立て小屋の

中における自炊生活も板についた、

と思ったら、

もう厳しい冬がやってきたのであった。

荒板一枚張っただけの小屋にはど

んなに新聞紙で目張りしても

風雪は遠慮なく吹き込んでくる。

吹雪の夜などは、朝起きてみると

着ていた布団の上には真っ白に雪が

積もっているの常であった。

実際吹雪というやつは

どんな隙間からでももぐりこむのである。

彼は机の上に父の開拓していた写真を

飾って寸暇を惜しんで勉強したのであった。

そして四年進学のときは

好成績で主席を勝ち得たのであった。

牧師の人と起居するようになってから、

彼は宗教的感化を

受けるようになったことは確かであった。

 

だが、洗礼を受けたりはしなかった。

唯、自分の修養の一助にしただけであった。

いよいよ中学の卒業期が近づいた。

彼は高等学校へ進む希望を

持っていたので、5年のときの冬は

牛乳配達はやめて、父に学資を

出してもらって寄宿舎に

入ったのである。

つづく