きょうの言葉

 

酒をやめるのは 革命を起こすより 難しい 江渡 テキレイ

 

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今日の川柳

 

別腹が 大きくなって 太っ腹           タカオ

 

かるすぎて おもい言葉が でてこない タカオ

 

おやじから ぼけてやるぞと すごまれる  タカオ

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ウェブック

・苫米地 義三の生涯

ようこそ、苫米地義三の世界へ。

このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。

では、気長にお読みください。


 

 

 義三の母・タケ
  


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第四章海外旅行の感想


一、洋行中重役に任命される 

彼が、欧米視察に旅立って間もない八月二十九日になんと平田専務が亡くなってしまったのでした。

彼はこの知らせをサンフランシスコで受けとったのでした。

彼の心には色々な思いが胸中に去来したのでした。

平田専務が亡くなった今、恐らく自分に帰国を命令されるのではないかという事でした。

こんな事を色々考えながら彼はニューヨークへ行き、ここで一足先に来た坂口技師と落合い、アメリカの視察は後回しにして急遽ロンドンに向かうことにしたのです。

こうして同行二人の旅となったのでした。

ロンドンではちょうど世界を漫遊中の文豪徳富蘆花と会ったのでした。

蘆花夫婦は古ぼけた黒い紋服を着てケンシントン・ガーデンの傍にある余り上等とは思えないようなケンシントン・パレス・マンションホテルに泊まっていました。

この頃、土の芸術家、哲学者として有名だった江渡狄嶺(えとてきれい)氏は、苫米地と同郷の親友であったのです。

このことを、蘆花が知っていたものですからこの話は次から次からと弾み、その後、蘆花との親交が結ばれていったのでした。

狄嶺(てきれい)とは同じ土に生きるトルストイアンとして、兼ねてから親交の仲であったのです。

蘆花氏の著「日本から日本へ」の中に出てくる苫(とまさん)さんというのはいわゆる義三の事であったのです。

それは兎も角としてロンドン滞在中に故国の会社では平田専務死後臨時株主総会を開き彼を取締役に決めたのでした。

そこで会社はこの旨を打電し、急遽帰国せよと命じて来たのでした。

一社員が一躍重役に昇進するということは異例の事でありました。

すぐ対応したのではあったのですがなかなか肝心の船便が取れないのです。

やむを得ず二ヶ月先の船室を予約してその間、イギリス・ベルギー・フランス・イタリー・スイスと一回り旅をしてイギリスに帰り、ここで乗船してアメリカに渡ったのでした。

ここではフロリダの燐鉱などを視察して翌年の三月に帰国をしたのでした。


 大西洋上、戦中において長年あこがれた欧州の土地も不十分乍ら(ながら)も視察してついに帰ることになったのでした。


 

イギリス・ロンドンを立ってから船中ではもはや七日を経過したのでした。

普通ならばニューヨークに着いているはずなのに、荒れがちな大西洋では特に冬の荒れ具合は凄まじいもので、難航し今漸く(ようやく)カナダのハリファクス港にたどり着いたのでありました。

無論予定外の寄港なのですが。


 

避難したか物資の補給ではなかったろうか。


聞くところによるとフランス側ではこの大荒れで沈没した船もあったと聞いているのです。


その船はローヤル・ジョージという船で私は全く船には弱いたちで困り果てたものでした。


大西洋はいつもの大荒れです。

・・これには三日の間は全く寝たきりになっていたのです。


 

日本人は九名乗っていましたが最初の日は全部が船室に閉じこもっていたようでした。

それから元気を取り戻したものは次々と食堂に出かけます。


 

そのお祝いとして後から起きてきたものは回復のお祝いとしてウイスキーソーダをおごることにしていたらしいのです。


 

荒れ具合は静まらないがこれにも漸くなれて、五日目に自分は食堂に出たのでした。


 

日本人としてはなんと最後でありました。

これで弱い体調であることが証明されたのです。

これが、お祝いなのか、それとも罰則だったのか分からないけれどもともかくシャンペンを抜かされたのでした。


 

しかし、この予定外の寄港で自分はカナダの土地を踏むことになったのでした。


 

ナイヤガラの滝の流れにかけられたカナダとの両国橋をはさんでアメリカ側からカナダを眺めたのは渡米後間もなくだったが、足をカナダに架けたのは今日が初めての事になる。


 

ハリファクス港は格別大きくもなく市街も繁華という感じがない平凡な市街である。

船へ帰って静かに欧州各国視察の後を追想してみる。


 

格別大きな獲物を得たような感じはしていないのです。


 

ロンドンに着くや否や本社から帰朝命令がきたので割合と大雑把な見学視察をしたのでした。


 

しかし、戦勝国だったイギリス、フランス、ベルギー、イタリア、等において勝者の地域なのであるのですがそれを回復させる、建設などへの積極性というか、あまり感じなかったことは確かなことであったのです。


 

もっとも誇っていいと思われるイギリスの今日の姿は、満身に全力を尽くして、疲れ切ってしまっていたのです。


 

しかしこのように困難ではあったのですが節約生活に耐えてきた習慣が戦勝後の今日も続いており、まさに勝って兜の緒を締めよというように感じるのは私ばかりでありましょうか。


 

ベルギーの大激戦地エーブルや、フランスのベルダン地方は、いまだに壊れた戦車や大砲が転がり砲弾が沢山散在しており、漸く屍が整理されたばかりだったの程なのです。


 

家屋建築物も荒廃し樹林が爆弾に裁断されたあとが生々しく目を覆うものがあります。


 

敵となり、味方となって、人類の闘争が、全精魂を尽くして戦って、果たして何を得たのであろうか、すべてを焼き尽くし、多くの人を死滅させた戦いは果たして唯単にすべてを破壊させただけではなかったのではなかろうか。

 

つづく