蒲生氏郷1556-1595
氏郷の父は近江国日野城主蒲生賢秀。
平将門の乱の奮戦で知られ、田上山の
「ムカデ退治」
で有名な田原藤太秀郷の後裔である。
氏郷は用命を鶴千代といい蒲生教秀という名称で知られている。
名前のとおり才能に秀で領民の信頼を集めていた。
氏郷の初陣は伊勢の北畠攻めで数々の戦功をあげ主君織田信長の信頼を受けた。
信長は幼女【冬姫】を氏郷の妻として与え、名を忠三郎と改名させ最も有望な織田家臣のうちに加えたのであった。
「本能寺の変」1582年以後は慎重に進み秀吉の陣営に属し清須会議から「小牧の役」を経て天生12年―1585には伊勢の松坂で12万石の大名の城主となっている。
のち「小田原の役」にも活躍し開東に伊達政宗、西に徳川家康、会津はその両者の間で重要な拠点であった。
従って武勇、英知、徳望、教養をことごとく備えた氏郷が會津を守ることになったのである。
氏郷は和歌、茶の湯、謡曲、などをよくし、茶道においては利休七哲(千利休高弟七人)に入る。
この後、氏郷は所領を120万石の大大名になり前田利家、徳川家康、と並んで徳川家の柱石と言われるようになったのである。
津に移って42万石の大名になった。
その時氏郷35歳。
氏郷40歳で急死、その時鶴千代は13歳で名を秀行といった。
鶴千代は家康の三女・ふり姫と結婚、翌年会津93万石から宇都宮18万石に入封関ヶ原の戦いの後會津60万石。
慶長15年1611年9月27日8時ころ大地震。
若松城下で大地震被害大、死者3700、家屋全壊、山崩れなどによる河川の閉鎖、もともと病気がちの秀幸は災禍による心労と大酒のため翌年30歳で他界。
蒲生氏郷には次のような二説がある。
1氏郷の会津廃風で驚いた政宗は氏郷を殺害しようとたくらみ家臣清十郎を氏郷と姻戚関係にある田丸務少輔直正の小姓西氏郷が田丸家を訪れた時殺害せよという謀殺命令を出したという話がある。
2小田原の役の後浅井長政を総大将都市蒲生氏郷を将とした豊臣軍は奥羽の九戸政実を攻略した後のことである。
石田三成がひそかに秀吉に次のような進言をしたのである。
「蒲生の行軍は整然としすぎている。これは何か他に目的があるからである。」
と文禄元年1592年朝鮮出兵を決めた秀吉は全国大名を招集した。
その時の茶会で毒入りの茶でもって氏郷を毒殺をしたという説がある。
名将言行録にも「秀吉氏郷を怖がる。」という記録もある。
つづく
