父の葬儀

 

父の実母が大正10年ころ亡くなりましたが私が小学校2-3年のころでした。

 

この葬式の行列は鮮明に覚えております。

 

当時はほとんどそうで自家から寺まで行列を整えて歩いたものでした。

 

おそらくこのような行列は戦前まで続いたのではなかったかと思います。

 

 

道路の中央を蓮華の造花を先頭に仏飯やお茶、たいまつ、四花などをもっての行列で最後にはお棺。

 

棺はおみこし風の形で美しく飾られた箱に収められ屈強の男の人四人で担ぎ上げ棺の四方から垂れた白キレには遺族の女の人たちが手を添えて白い装束を付けた念仏のおばあさんが他の唱える念仏と金に合わせて静々とsンこうするのが三本木の葬列のしきたりでした。戦後は交通事情で歩くことができず。

 

もっぱらバスで寺門までの鯉門前で行列を変わりましたが昭和32年頃までの葬式ではおそらくこの形に則った最後の葬式ではなかったででしょうか。

 

当時の行列は大変長いもので最初に花輪などが寺へ到着したとの電話連絡が入っても出発点のサンバ組合の構内を私どもはまだ出ることもない状態でした。

 

またそれよりも葬儀を見物する人たちあ沿道を埋め尽くしてその群衆に驚いてしまいました。

 

おそらく近郷近在から見物に来られたのだと思います。

 

通りの窓からも頭が見え電信柱によじ登っている若い男の姿も見えました。

 

おかげで私どもは一月という寒い時期にもかかわらずコートなどまとわなくとも人垣で暖かなものでした。

 

行列帳を紹介しますと最初は灯弔旗、花輪、と続き花輪の数は記されてはいませんがこれは十和田湖町と十和田市と消防団員の方々がそろいの制服姿で持っての行進で見事なものだったと聞きました。

 

次は家畜商から三十名、牧野組合から五十名の方方が出てくださってかわるがわるの行進だったと思います。

 

花輪や威か生花は主催者側の重役さんや役職員の方々それに東京から持ち帰った政界のお偉方衆議院事務局長鈴木隆夫氏中央畜産会農林省経済局長同畜産局長、山崎知事、石井三次郎氏、農林大臣井出市太郎、幹事長三木武夫氏衆議院議益谷秀。次は、玉と記されていますがたぶんくす玉ではないかと思います。

 

これは主に親戚筋の方々からの供物が多かったようです。次に並んだのは内閣総理大臣(第55代)石橋湛山(いしばしたんざん)などのお名前が葬儀の写真に見えておりました。

 

年配の方にはちょっと懐かしい名前ではないかと思いますが次に並んだのは金運銀運、白運でこれは十鉄職員の48名によって運ばれました。

 

次は会社、工場、牧場、下北婦人会、銀行、証券会社、料亭、芸能関係、など。

 

その次からは遺族の男子の役で竹田家、天皇陛下ご下賜品,松明、花、香炉、お飾り菓子,茶水,四花、仏飯、勲章、写真、位牌の順に並び最後は遺骨を納めた霊棺。

 

この霊級は土手山の住人、八名の方が担いでくださいました。

 

霊柩車の両脇には本家の小笠原亀一さんと父の弟の太田勇が付き霊柩車のの前には導子を務めてくださった理念寺さんが赤い傘を共の者に差し掛けて先導してくださいました。

 

私ども遺族の女子は霊柩車から伸びた四本の白布の綱を握り締めて名残を惜しみながら後をついていったのでした。。

 

国道から寺のほうに曲がったら両側に寺まで花輪がずらりと並べられてその一基一基には消防団員の方々が姿勢を正して遺骨を迎えてくださりまことにありがたく頭が下がりました。

 

皆様のお世話にあずかりご配慮をいただきました。

 

父の生前、良くも悪くも華やかなそして派手だった生涯を送る葬儀を行うことができて皆様に感謝するとともに

 

「ああよかった」

 

と私なりに安堵しました。

 

悪口を言われ続けていた父の葬儀があまりみじめではとちょっと、心配しておりましたが、予想以上の葬儀で心からの喜びと感謝でいっぱいなのでした。

 

葬儀を終えていろいろな噂話が耳に入りましたがその中で私の心を打ったのは

 

「八十三は死んでからまで三本木に人集めをしていった」。

 

という言葉を群衆の中から聞いたのです。

 

「この言葉こそ盛大な葬儀よりももっとも父の霊へのはなむけだったんだ」

 

とうれしく思ったことでした。

 

父が去って幾日も立たなかったと思いますが馬頭観音像が届けられました。

 

何かの記念に父に送るために作られたそうで北海道東北地区農共済連会長一同から送られたものでした。

 

「先生に見ていただけないのが残念です。間に合わなくて残念です。」

 

と、工場2-3人の代表者によって届けられました。

 

作者は高村幸太郎のお弟子さんとかで斎藤義也作と記されておりました。

 

一尺くらいの小さなもので削りくずも添えておりました。

 

仏壇は東京の家の出入りしていた城生という大工さんが私に作らせてほしいと申し入れがありケヤキで作った、城生先生の自慢の作でした。

 

新しい家のどこへ置いたかもう一度見たいと言って無理を押してわが作品を確かめに行ったそうです。

 

父の死後三十年、この手記に乗せた方々もあの世とやらで私のこの作業を知ったら親父さんは何と言うだろうか、どう書こうかと思いめぐらしました。

 

「おまえ、誰のおかげで新聞などにものを書けるようになったんだ」

 

と威張っている姿だけが目に浮かびます。

 

つづく