年を越しての葬儀
畜産農業協同組合、十和田観光電鉄。、三本木、畜産農協、など七団体の合同葬と決まり通夜は一月九日午後陸自から次いでよく十日に三本木畜協で告別式を行うことに決定。
いざ行列が始まろうとしたときに母の姿が見えません。
母親の心境どうしたかと探していましたら誰かが土手山へ帰ったと知らせてくれました。
急いで土手山に行きましたら母はきちんと膝をそろえいつものようにきちんと座っていたのです。
膝を崩したりした姿は弟も妹たちも私も見たことがありません。
他の事とは違うのですから何とか連れ出そうと努めましたがてこでも動きそうもありませんでした。
その時母が
「鶏でもあるまいし」
と一言ポツンと漏らしました。
わたしはその時電気に打たれたようにショックを受けました。いつの間に知ったのでしょうか・・・。
実は前述の大阪の医師夫婦が八十美の東京の妾を連れて葬式に出るため三本木ホテルに宿をとっていたのでした。
泣きつかれたのかもしれませんが医師ともあろうものがなんという心無いことをするんだろうと腹が立ちましたがこんな時、諍い(いさかい)をしてもみっともない・・とそのまま打ち捨てておいたのでした。
母を知る人たちはまた引っ込み思案が始まった・・
ぐらいにしか見なかったと思いますがいつも自分自身を退くに退いてかろうじて小笠原の家の平和を保ってきた母でした。
が50年も連れ添ってきた夫の葬式にも出ないという強さが母のどこに潜んでいたのでしょう。
夫についていけない自分は何もできない無能な人間だとℍつ用意上にかたくなに自覚していた母にじれったさを感じながらも労わり(いたわり)の気持ちで接してきたのです。
口数の少ない母が
「鶏でもあるまいし」
といった言葉にこの人は無意識ながらなんと気位の高い人生を貫いた人なんだろうと…。
母は代議士夫人にまでなれたことを大した喜ぶ風もなく淡々としていたようです。
母の生き方にふさわしいのでした。
新婚当時は夫の酒、貧困に苦しみ。
断酒して経済的にもやっと逃れたのもつかの間、夫が死ぬまで女で苦しめられた人生、逆立ちしても歯が立たない夫に明治半ばに生まれた母は、自分の身を引くことによって夫八十美の機嫌取りに汲々(きゅうきゅう:あくせく)としている。
母は、つまらぬ女たちを相手にせず、いきり立つ娘たちを抑えながら生き抜いた。
弱いようで本当は強い人ではなかったと今にして思い返しているのです。
つづく
