最後の選挙

 

昭和30年の二月にまた総選挙がありました。

 

これは父の第九回目の立候補でそしてd最後の選挙になったのでした。

 

九回のうち一度は落選でしたがこのときの選挙は忘れられないものでした。

 

28年に惜敗し次点の後の次点の憂き目を見ての後のことですから戦況もはかばかしくなく次第に痩せてゆく父が目に見えたものです。

 

それでもかろうじて当選しこのとき、当選したおかげで葬儀は”現職”で行くことができたのでした。

 

もし落選していたら父の葬儀は寂しいものだったに違いなく現職の出の葬儀で父らしい盛大な華やかなものでした。

 

日がたつにつれて思うのは、父らしい最後で、盛大な葬儀、本人も満足だったとおもいます。

 

わたしもつくづく何かに手を合わせて拝みたいありがたさがこみ上げてきます。

 

これは虚栄などではなく生前とてもにぎやかな人でしたのでみじめでなく送りたかったのです。

 

最後の開票日には天間林を除いて開票した時点で東奥日報七戸支局支局では盛田当選と該当包装紙その通報を青森の盛田事務所に流しました。

 

盛田事務所では四斗樽の鏡を抜いて祝杯をあげたそうだと耳に入り皆さん心配して三十番の事務所に一杯詰めかけ近所の人たちも二月の寒空に事務所の前にたくさん来てくださり立ち去りもしませんでした。

 

隣の柴宮のおばあさんも長い間前に立って下さったのを覚えています。

 

人の記憶はあやふやなものですが、私はこんなはらはら選挙30年の選挙以来だと記憶していたのですが三星はもっと前だったと思うという。

 

わたしも自信がなくなり二人で猿倉へ行って弟も三十年の選挙は順調だったと思う。あの選挙はもっと前だったと思うと、同じことを言うのでそれならいつだったかと聞くと二人ともあいまいなのです。

 

こう話しているうちに弟があの時佐藤不共さんが

 

「まだ大丈夫だ、小笠原当選予想だから全部開票するまで気を落としてはいけない」

 

と励ましてくださって不狂さんの言葉に一縷の望みをかけて最後まで待ったそうです。

 

不狂さんのの言われた通鯉親父が当選したという重手話が出たのでその余波一泊して翌日早速不狂さんを訪ねて詳しい話を聞きました。

 

不狂さんも何年の選挙高定かではないが選管の記録を調べて電話しましょうということでした、

 

「であればなおのこと世間に納得のいく病院に入院させてください」

 

と頼んで別れましたが日ならずして東大の沖中内科にうつされたのでした。

 

入院長はあの用この用と、十鉄や身内の男たちを呼びつけては枕元で指示をしていたようでした。

 

わたしが十月に病院に見舞った時も思いのほか元気で意識もはっきりしていました。

 

が、私は病室を出ゐていかれた担当医師の方を追いかけて、患者の長女と名乗って病状を尋ねました。

 

先生は細かく説明してくださり

 

「春ごろまでは持つでしょうが、いずれにしても社会復帰は無理。これから徐々にお痛みになるようになりますとモルヒネを打つようになりますから」

 

とのお話でした。

 

つづく