ジャージー乳牛の導入

 

馬術大会の盛況は十和田草原が酪農によって開発されようとする時で沈滞しがちな農民に夢を与えそして持ち前の逞しい意欲が盛り上がったのではないでしょうか。

 

と申しますのはこの年昭和29年には十和田集落地域設定を申請しています。

 

国の施策は国内の乳牛資源の増殖のみで急増する生乳の需要を満たすことができず昭和28年から35年にかけてオーストラリア、ニュージーランド、アメリカなどから12000

頭余りのジャージー乳牛を輸入しこれを12箇所に貸与したのです。

 

(中央畜産会・三十年史)現県では終戦後、ことに昔から我が国の馬産地として知られてきました。

 

この地域は夏季、ヤマセによる冷害などで低位生産の畑作農業から脱却を迫られていたこと。

 

また広大な牧野の効率的利用と経営の果然(かぜん:思った通り)を図るための養畜、特に乳牛を取り入れた、所謂(いわゆる)有畜農業に改善することが適切であるとの判断から国の施策である集約的酪農地域の設定を図り、急速なる酪農の普及発達に努めこの地域の農業経営の安定を図ることにしたのです。

 

(県の集約酪農地域建設事業についての記録による)県会では特別委員会を設け委員長に高橋竹次郎県議(県議の後最近まで黒石市長を務められた先年物故されました)。

 

副には主人の三星が指名され二人は泊まり込みの運動を続け、特に高桶さんは選挙区でもないのに青森県の最も強大な静岡県と東京を往復して相手の手の内を探り続けたり、地元の新聞など携えてくるなど大奮闘されました。

 

三星は大変恩に来ていました。

 

地元では水野町長さんを先頭に周辺の町村長さんもこれまた別に運動を開始されたのでした。

 

指定決定法を受けた時三本木役場ではだれからともなく万歳の声が上がりみなそれに唱和して喜んだと聞いています。

 

水野町長さんの腹は言葉には出さないけれどこれによって南部の農民を津軽並みの水準まで上げたいという大きな目的があってのことだったと思う。

 

と、三星は言っていました。

 

酪農だけを考えるのであればホルスタインでもジャージーでもよかったんです。

 

が、ジャージー牛そのものの貸与ばかりでなく牧草作りやサイロ作りなどに補助金が付きそのほか低利の貸付金も設けられていたそうなのです。

 

それが魅力であり目的でもあったのでしょう。

 

戦前後何回か私も津軽へ出かけたこともあり津軽の農家の立派なこと、大きな屋根、真っ白な壁、広い前庭、風格ある植木、などいかにも福々しくそして広大に広がるリンゴ園、南部の農家の大部分は小屋のようにみじめだったとだと記憶しています。

 

三本木役場の職員の方々も心を一つにした喜びの万歳だったのではないでしょうか。・・・・・

 

日本全国からこの好条件に飛びつかぬはずもなく大運動が開始されたそうです。

 

農林省のこの担当の役人である畜産局長さんは面白い方で三星を自分の部屋に連れ込んで

 

「見てごらんなさいこんなですよ。」

 

つづく