きょうの言葉

 

僕がごみを拾うのは 運を拾っているのです  大谷翔平

 

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お金の話で思い出しましたが、

 

「イノシシ仕舞い」

 

という言葉を覚えている方はもう少ないと思いますが、昔の十円札には清麻呂の肖像とイノシシが印刷してあったので十円札を

 

「イノシシ」

 

といったので私も時々耳にしたことがあります。

 

それが最近読んだ本に(二十年前に発行されたもの)に載っていました。

 

清麻呂が道教に追放され、彼を亡き者にしようとしたときイノシシが現れ清麻呂を守ったということによるものだそうです。

 

今でも清麻呂を祭神とする今日の護王神神社のお祭りに猪行列の大行進が残っているということです。

 

当時のイノシシ一枚は今の一万円よりも使い出があったと記されております。

 

話が横にそれてしまいましたが戦争中、蔦温泉にお世話になっていた私の娘二人を迎えに行った父が

 

「春子は泣いていたし登勢子はきょとんとしていたよ」

 

と、話していましたが長女は尋常小学校五年くらいでしたが物心がついていたのでしょう。

 

その時は夢中でしたが考えてみると招集外れの男たちは半武装で家や職場の守備に就き家族はそれぞれ安全と思われる場所に避難されました。

 

が、男の人達にもしもの事があったらどうしよう、女子供だけ残ったらどうしよう。

 

冷や汗ものでした。

 

そんな悲しみにあった方々が周りにたくさんいて当時は口には出せませんでしたが今でも不謹慎と怒られそうですが、実感でした。

 

戦後は父も次第に日の目を見るようになり追放になどになるわけもなく鳩山自由党総裁に時代に前述のように八戸の体育館の設置にあたり県支部長として自由に動けるようになったわけです。

 

第一次吉田内閣へ衆議院農林水産委員長の椅子が与えられたのでした。

 

この農林水産委員長は父にはもっともな椅子で、それこそ魚が水を得たるがごとくなのでありました。

 

農業、漁業、林業関係、食糧問題、開拓などどれも父が体験豊かなものばかりで大分活躍ができたようです。

 

すべて具体的で実際的では気のすまぬものばかりで関係閣僚のお役さんにとっては随分うるさ型だったらしいです。

 

父が官舎に入るとすぐに門衛から知らせるようにしてあり、知らせるとこれまたすぐ用を作って外出したものだそうです。

 

一方ではそれと知っての用向きで必要な役人の部屋の前に------を立てて置き逃がさなかったとの事後で秘書から聞いてあきれたり笑ったりでした。

 

衆議院の委員長ですから当然のこと、このころは選挙区だけでなく津軽東北は勿論のこと関西九州方面にも出向いていましたから全国的スケールで働いていたのでしょう。

 

三本木では稲整備とか川の整備ために継続予算を獲得したのもこの時期と聞いております。

 

つづく