今日の言葉

 

風が吹いたら 一にも二にも 柳に風

柳葉に 魚と書いて シシャモかな

 

宝性功徳の草柔軟に施れり

解るもの勝楽に生ずること*迦栴隣陀にすぎたり

 

*̠迦栴隣陀(かせんりんだ:水鳥の 一種)

羽毛は細軟で、これを集めて織ると柔軟な衣服をつくることができ、これに触れる とよく楽受を生ずるという。

 

神様は 乗り越えられない 試練は与えない 

                      鶴竜 休場

 

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今日の川柳

 

死んでやる 嫁より後に 死んでやる  タカオ

 

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・苫米地 義三の生涯
ようこそ、苫米地
義三の世界へ。
このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。
では、気長にお読みください。

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>>>>年々多くなったのでした。>>>>

 

 七、東亜農業研究所を開設

 昭和十六年十二月八日(義三60歳)、ついにあの無謀な戦争に突入してしまったのでした。

東北興業の副総裁を辞任すると同時にこれまで関与してきた事業関係とも結別して、わずかに八戸銀行、東北肥料にその名を連ねているにすぎなかったのでした。

すでに二十余年前のことでありますが、彼はアメリカを視察した時に「このアメリカという国の民衆がアメリカ国旗のもとに国家観念が糾合されたるとしたら恐るべき世界一の強国なのです。

かつて感じたことが生々しく思い出され、この二十年の歳月の間におそらく当時のアメリカが国民の国旗を掲揚させていたのが、まともに成長しているだろうと思うと、軍部の猪突を恨みたい気持ちになったのでした。

新興炭鉱事件も落着したのでしたが、何をする気にもならなかったのでした。

しかし始まった戦争ならば仕方がないとしてこの上は神霊の加護を祈るばかりでした。

ただこの戦争の勃発直前、日本農業のより効果的な経営法を研究しようとして、石黒忠篤、安藤広太郎、那須焅、の諸氏とともに帝都線の浜田山駅近くの財団法人東亜農業研究所を設け、石黒氏を理事長に彼は常任理事になり実験農場を田無に開き研究に没頭したのでした。

農業こそは国の大事であるとして、彼は昭和謝恩会の設立と同時に農場を郷里に設置したのでありました。

彼の農業に対する情熱は職を社会に奉ずるに肥料界によっても察せられるように人一倍激しいものがあったのですがこれも、父の影響が大きいのかもしれません。

昭和十七年八月請われるままに全国肥料商業組合理事長に就任したのでした。

十九年一月、全国農業経済理事となったのもそのころでした。

しかしこうした職名はいわゆるただの名誉職であって彼は極めて静かな、生活をしていたのでした。

太平洋戦争勃発の頃には目の回る忙しさではあったのですが、この頃の彼は全く静かなもので、この機会を天与のものとして受け止め、多年会社の経営にあたった実情について考察し、今後の企業体の経営の根本理念をどうすることが最も理想的なものかとしさくをつづけていたのでした。

かくして生まれたものが彼の「信託主義」というかんがえかたであったのでした。

 

 八 終戦の日

 空襲が熾烈を極めてきた二十年の三月、彼は郷里藤坂村に疎開し昭和謝恩会の建物に起居していました。ここで記念農場を直接指導したり、信託主義思想について構想をねっていたのでした。

終戦のニュースを聞いたのもここでした。

ラジオのスピーカーを通して聞こえてくるえてくる陛下のお声を聞いて彼の両眼には何時のまにかなみだがあふれてくるのでした。

ついにわが日本は破れ去った。

二千有余年の間われらの祖先が営々として築いてきた祖国は暴力を背景とした嬌慢愚劣な軍国主義者たちによってついに崩壊したのである。

なんという悲しい世の中になったものであろうか。

 しかし今ここで、いたずらに嘆き悲しんでいる場合ではないのだ。これは神が日本国民に与えた試練である。

ここでわれわれは勇気を奮い起して廃墟の国土を再建しなければならない。

新しい理念と企画によって国土を整理しこれによって違った新しい種をまいて行かなければならないのである。

あたらしい種をまき肥料を施し科学と理知と愛護の手入れを加えて気長に忍耐と努力をつずけなければならないのです。

そうしてこそか豊かなおいしい実が実るということになるのであるということを。

 ちょうど二週間前の新聞紙上に、日米ポツダム対日宣言が発表されていたのである。

それには「我々は日本人を民族として奴隷化せんとし、また国民として滅亡せしめんとする意図を有しない――基本的人権は尊重される。

・・・日本国は将来世界貿易関係への参加は許されるべし」との意味があったはずである。

こう考えた彼はすぐその翌日鍬を棄てて上京し、農林大臣千国興太郎氏に面会して今後の問題について意見の交換を行ない、一旦、帰省したが、この年の十月、彼の古巣である日産化学工業の社長に就任したのであった。

国民のほとんどが、虚脱状態にあったときに早くも将来を見通して行動を起こしたのであった。

昨日まで昼夜兼行でとうしてきた甲斐があったというものである。

日産化学工業も、軍の命令によって肥料よりも火薬などを生産していたのであるがゆきづまってしまったのであった。

そこで会社はこの際苫米地氏に出馬を頼むのが賢明な策であるとして、早速株主総会を開いて社長就任を決定したのでありました。

この日、日産化学工業は言うまでもなく大日本人造肥料会社の改称でありました。

もとより肥料ずくりで半生を過ごした彼は、戦時中肥料らしい肥料ヲほどこさなかった日本の農村に、いち早く施肥の効用がありという全国数か所に散在している工場に対して、全能力をあげて、硫安その他各種肥料の生産に着手するようにしたのでした。それと同時に構想なれる信託主義経営の抱負をふれたのであった。

この信託主義は、要するに従来の資本主義的搾取の弊害を根源とした労使の構想をまず排除して、道義と相互信頼との観念にもとずいて社内が一体となって共同して富の生産を増し、社会の福祉に貢献するとともに、その利潤を公正に配分して従業員各自の幸福と向上の機会を得ようというのである。

彼はどうしてこれを信託主義となずけたのだろうか。

事業経営体である会社というものは、一般株主から資本を信託されているのである。

と同時に、社会から社会のために幸福を際すべき事業を信託されている義務観念から出発しているのである。

この考えこそ事業をしている人にとっては、必ず守らなければならない、また再建に第一に必要な道義的精神だというのである。

ただ儲かりさえすればいいというものではなくそのためには社会一般に害を及ぼすような仕事は彼のもっとも排斥するものであったのである。

 日産化学工業はそのために業績はとみに良好となったのである。

かつて財界の名医と呼ばれた彼の手腕はここにおいてもいかんなく発揮されたのでありました。

このころの彼のことを、かって日産コンツイルンの重要人物である以上日本の資本家陣営の中でも特に勤労大衆と対象的的な性格をもつものと批評するものもいたが、これは彼のことを知らないものの誤った考えだったのです。

つづく