今日の言葉
あんまりきれいだから 窓を開けた
心に大きな明かり タカオ
胸やけと生焼けは 体に悪い
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今日の川柳
よく呑んだ のんで 呑んで 呑みまくり タカオ
介護され いつの間にやら 北まくら
我が人生 擦り切れトンボの 赤い糸
健康に ポリフェノールと チョコを食う
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・苫米地 義三の生涯
ようこそ、苫米地義三の世界へ。
このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。
では、気長にお読みください。
昭和29年参議院議員
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>>>>興味のあるやり方でもありました。>>>>
二、東北興業副総裁に就任す
硫安販売会社が日本硫安株式会社となり、さらに日本肥料株式会社と変わったのですが、専務としてその実際指揮にあたったのでした。
さて昭和十五年十月、彼は内閣から東北興業の副総裁に任命されたのでありました。
この会社は政府が預金部資金を東北地方の自治体に低利で貸し付けその自治体が株主となって構成した会社で、総裁と、副総裁は内閣が任命するいわゆる
半官半民、
の会社なのでした。
ところで苫米地氏がどうしてこの会社に行くことになったのかというと、彼と親交のあった、
山形県知事をしたことがある
金森太郎氏
がそのころの副総裁だったのです。
この会社の総裁というのはいわば飾り物みたいなものでしたが、副総裁が主としてほとんどの仕事をしなければならならなかったのでした。
金森氏は官僚畑の人だったので経営ということになればどうも苦手だったのでした。
そこで化学工業界の重鎮である苫米地氏にその白羽の矢が立ったというわけなのです。
この相談を受けた彼は、自分も東北の出身である。
恵まれない東北地方の為になるのであれば最後に献身的な奉仕をしてみましょうということになって始めたのでありました。
唯の理事位に考えていたのですが、しかしながらどうしても副総裁として就任してもらいたいという強い方針でしたので、金森氏は自分で自分を追い出したような格好になり苫米地氏の就任となったのでありました。
太平洋戦争勃発の直前でしたから政府としてもこの東北興業に、国防国家建設の意味から、日本産業の一ブロックとして東北を満州に直結させる計画もあったくらいでしたから、好機謁するべからずということもあって、いろいろな計画の相談が月に二十件も来るありさまでありました。
中には小さな会社もあれば、雲をつかむような企画だけのものもあるという具合で副総裁としての苫米地氏はこれらの会社を一つ一つ検討して援助する、しないを明確にしていくのでした。
中には外すことにも困るような、のっぴきならないような人の紹介があったりして政治色のきわめて濃厚なものもあるといった極めて難解なこの作業を次々に解決していったのでした。
彼は綿密にバランスシートを検討して可否を検討していったのです。
数字に強い・・・多くの会社に対する活眼はここにおいても十分発揮されたのであったのです。
「東北興業はなにも東北の事業会社の救済機関ではないのです。
東北を開発する機関なのです。
だから見込みがあれば、従業員が五人の会社だって肩入れしてやってもいいのです。
その代わり見込みがないということになれば大会社であっても問題にはしなかったのでした。
東北興業から金を出させてうまい汁を吸おうともくろんだ人々は「どうせ政府の金ならもう少しおおめに見たってよさそうなものだが今度の副総裁は少し厳しすぎるよ。
といった具合の評価もあったのです。
こうした彼の信念はそのまま仕事の上にも現れて、朝の出勤時間さえ課長達よりも早いくらいの意気込みでいたものですから当然だったのです。
実際、現地視察ということにでもなれば
自ら炭鉱の中へ潜りこんでみる
といった程にそういう意気込みさえも持っていたのでした。
ただ出張して業者のごちそうを食べに行くような気分なんかでは全くないのです。
こうした評判を知るか知らずや、彼はただ一筋に、営業の整理、事業の選定、政治色の排他、に努力し事業としていついかなる時期にでも東北興業が手を引いても成り立って行けるかという事業の問題にだけ援助する方針をとったのでありました。
当時彼の関係した会社の大半が、今日の隆盛をみているのは当然といえば当然なことであろうと思われるのです。
現在の東北パルプ、東北電気製鉄、合同酒精、東北毛職、日新電化工業、東北亜鉛、東北肥料などその企業に枚挙にいとまのないほどだったのです。
このように業績は大いに上がったのでありますが在任八ヶ月で辞職したのは、出張中の無理がたたって病を得てしまったからなのです。
それもそうであるが彼の近辺に起こった
新興炭鉱事件
が、彼の性格から考えてそれが真相のようなのである。
しかし、人間の運命というものほど不思議なものはない。
もし病気とか、新興炭鉱事件が起こらなかったならば、おそらくそのまま副総裁から、総裁へと駆け上り最近のレッドパージまで解除になるまで蟄居のやむなき境遇に置かれたのちがいないのです。
禍い転じて福となすということわざを地でいった格好なのでした。
しかし彼はおそらくやましいところがまったくないので神はこのように導いたのではないかとも思われるのです。
と信じているに違いないのです。
というのは、このことが一度であれば二度のたとえにもれず、再三再四にわたったので、夫人もとうとう事情を聴くと意外にも樺太の安別炭鉱の事業資金だというのであった。
然らばその新興炭鉱事件というのはどのようなものだったのかというと・・・。
つづく
