今日の川柳

 

秋の十和田 楽しき花膳 かぱちぇっぽ(ひめます)   タカオ

 

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今日の言葉

 

五十年かかって分かった足元の青い鳥

 

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・苫米地 義三の生涯
ようこそ、苫米地
義三の世界へ。
このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。
では、気長にお読みください。

いつかの当市

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>>>>「ジミール」という名で市販に出したのでした。>>>>

 

 第六章 戦時中の動勢

 一、肥料統制の会社に入る

柳条橋から蘆溝橋までの七年間は、*リットン報告を出発点として、我が国が悪魔に魅せられて呪いの旅に立ったころと思われます。

国際連盟脱退,中華府条約廃棄、軍縮会議脱退など、五・一五事件、血盟団事件、二・二六事件など吹きすさぶ嵐の中を一歩一歩歩いて行ったのでした。

*リットン報告:1932年3月国際連盟より、イギリスのリットンを団長とする調査団の満州事件から満州建国についての日本を非難した報告書。

このような環境にあって、一般経済界はにわかに停滞し、彼が本社に転じてからは、順調に推移してきた会社も昭和十二年二月にこの、

日本産業株式会社は日産に合併
更に
同事業部門は

日本炭鉱株式会社
に引き継がれ、
新たに社名は、

日本化学工業株式会社

となり、過去五十年間、日本化学工業界に輝く足跡を残した、

 大日本人造肥料株式会社、
の名前は消えてしまったのでした。

のちにこの会社が現在の

日産化学工業株式会社、
と改称されたのでありますが義三は請われるままにこの会社の

専務取り締り役
に就任したのでした。 

この年の七月、ついに日華事件が勃発したのでした。
強引な軍部の意見は好むと好まざるにかかわらず国内を戦争体制に持っていったのでした。

この時臨時議会が開かれて、

「肥料配給統制法案」
が通過して、ここに国策会社として

硫安販売株式会社
の誕生を見たのでした。
これは我が国において

国策統制会社
の始まりなのでした。
動機と形式は違っていたのですが彼が長年主張してきた

肥料専販制度の実施
とみられるものでありました。

農林当局と同業者はこの会社の実務担当重役就任されたのでした。

そこで彼はこれまで関係のあった数十の会社の重役をやめて硫安販売株式会社の専務取締役として国策に順応することにしたのでした。。

今ここで彼の関係する会社を列記することに致します。

 大日本人造肥料常務取締役

 合同油脂常務取締役 

 神島人造肥料専務取締役

 北海道油脂工業取締役社長

 北日本油脂取締役

 公海興産取締役社長

 能美漁業取締会長

 豊国水産取締会長

 鹿島水産取締会長

 女川水産取締会長

 硬化油脂販売取締会長

 グリセリン販売取締会長

 高圧化学工業工業取締会長

 台湾肥料取締役

 中越電気工業取締役 

 化学塩業取締役

 特許染剤取締役

 大阪アルカリ土地常任監査役

 神島化学工業監査役

 日東硫曹監査役

 日本硫曹監査役

 化農報取締役

 硬化油同業組合理事

 ステロー共販組合理事長

 日本グリセリン同業組合理事長

 パラステ販売連合会常務理事

 八戸銀行頭取

 昭和謝恩会理事長

 新興炭鉱取り締まり社長

このように数えきれない会社の経営者として活躍した彼には事業は肥料と油脂関係が多いのですが、ここに列記した最後の三つは彼としてはまったく畑違いの仕事でもありました。

さて、この硫安販売会社で彼は小売最高販売価格を設定したのでした。

違反者に対する制裁は取引の停止、保証金の没収を持ってしたため、ことさらに法律を待たずして有効な成果を上げたのでもありました。

統制経済につきものの闇問題をこのようにして根源で防止するやり方はまったく興味のあるやり方でもありました。

つづく