今日の川柳
川柳に 圧力かける 妻のしわ タカオ
松の枝にも 互いを見つめる 重なりあり
笑うときも 謝る時も 自分から タカオ
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・苫米地 義三の生涯
ようこそ、苫米地義三の世界へ。
このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。
では、気長にお読みください。
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>>>>三好孝氏は義三を次のように語っているのです>>>>
「私は大正十四年学校を出て入社し昭和七年三井油脂化学---のちの共同油脂の専務として転ずるまで苫米地先生のもとで働いたのですが、この方ほど包容力のある方は珍しいと思います。
同業者との協調の問題にしてもそうした面が感じられるのです。
ほとんどあの方は自分の方針というものを決して人に示すことはしなかったのです。
てこでも動かないという確固たる方針はありながらあくまでそれを伏せておいて同業者間で自由に論じ合っているうちに自然にその線に来るのです。
つまり他人をして自分の方針を言わせるのが先生のとられた方法のようであったのです。
その代わりに、自分の部下をしても、実に自由に論議するという一見して妥協のうまみがあるようにみえるのですがどうしてどうして、芯が非常にしっかりしているのです。
たとえば卑近な例ではありますが仙台に行く用事があるとします。
先生は常磐線で行こうとしている。
そこへ東北線で行こうという部下があれば究極において
同じ所へ行くのであれば部下の好きな通りにさせる
というのが先生流だということになるのです。
このように先生流に言うならば人を使う時の先生のやり方は見事というしかないのです。
全く感心してしまうのでした。
先生はどんな問題にしても、
たとえ最後には決をとるにしてもその方法は同じであったのです。
今これを考えてみると
敵を作らずに自分の考え通りに物を運ぶ名手
であろうと思うのです。
経営の整理の問題にしても取引銀行にしても銀行に言わしめるというような、
相手に言わせるように運んで行く
という名手なんですねえ。
そして、先生は細かいことを言うなんて言われていますが自分としてはこれはあべこべであって、
一度任せたら最後まで相手に任せた
ものであったのです。
またよく世間で見受けられる社長とか専務とかいう人は、部下の考えをそのまま実行することは、たとえ自分もそれと同感だとしても、何か社長としての沽券にもかかわるとでも思うのか手段方法を変えたがるのであるのですが、先生はこれとはまったく反対なのです。
先生は朝鮮の漁業組合の成立を助長され、その製品を言って二回受け契約をされたのですが、二十万人組合員を擁したこの仕事は大変なものだったのです。
話は違うのですけれどもこの時は私もお伴をしまして、朝鮮ホテルで一週間も寝起きを共にしたのです。
そのとき先生は何を考えられたかですね。
「イワシは動物である。イワシかすなどというものは動物の飼料にすべきである。」
決して植物の肥料などにすべきではない。万物の理法は、
「貴化」
すること、だと云うのでした。
これがあとで東洋経済に
「大いに貴化運動を起こせ」
と題して書かれた一文が一分のヒントだったと思うのですが、先生は読書家というよりも思索家に近い人だと考えさせられました。
そしてまた文字についてとても考える人であって着想と言っては当たらないかもしれないですが今までの言葉を換えるというようなのに妙を得ているといったところがあるのです。
例えば従来
「農業」
と言われてきたことですがをこれからは同じ
「農業」
でなく
「農行」
に改めることが必要だ。
それは平面的ではなくて立体的に農業をおこなうことなのである。
詰まり工業と商業を両翼にしなければならないということなのである。
私はこの意見を興味深く面白く拝聴したのでした。
「自分の意見が通った」
ということになれば誰でもその目的を達成する為により努力するものであるという彼の考えがこうして立派に実を結んでいったのは当然であろう。
彼が本社に転じてきた当時会社は欠損を計上するやむを得なく状態にいあったのであることは先に述べた通りであるが、昭和六年の夏ごろからさしも吹きすさんだ世界恐慌の嵐もようやく底をつき犬飼内閣のインフレーション政策によって農産物も値上がりを示したのであった。
そこへ持ってきて彼が考えた流安の合理的統制も落ち着き配給組合も設立されたのでした。
一方、薬品も販売統制が確立されそのうえ軍需の諸工業拡張につれて、硫酸ソーダー等の需要が増してきたので、翌年の七年には早くも百四十万円の利益計上となり、八年上期は過去五期続いてきた無配を五分配当までにこぎつけたのでありました。
しかも彼が発明した化成肥料の公表は断然他を圧倒して売上高が急上娼、九年上期には7分の配当を行ったぐらいまで上がったのであった。社債も逐次償還し、高利を低利に振替され、不要資産を処分するなど極力経営を合理化していったのでありました。
つづく
