今日の川柳
ストレスを かわしてここまで 生きてきた タカオ
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・苫米地 義三の生涯
ようこそ、苫米地義三の世界へ。
このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。
では、気長にお読みください。
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明治四十三年十二月二十二日
我が国において硫酸の製造は一に平塚火薬株式会社を除いて他は全て鉛室法(えんしつほう:かつて行われた硫酸の製造法)で行なっていたのです。
特に最近では酸化鉄の触媒作用を応用するという方法で行なわれていたのでした。
今、私は強硫酸を作るという他に鉛室硫酸を作ろうとしているのです。
これは硫酸界に一大改革を齎す(もたらす)ものでした。
更に、この方法で鉱山の精錬に応用して硫酸を作った後に残ったガスを空気で薄める。
これだと煙毒の心配が無くなるのです。
私はこのような実験の結果、特許をとって会社に実行して貰うと共に、鉱山にも推奨して貰いたいと考えているのです。
この出願は翌年の五月二十四日付けで許可されたものなのです。
私は今静かに自分の置かれた立場を反省しながら、その上研究も怠らず学友との交際も続けながら、嘗て(かつて)の黒い雲に覆われたような学生時代の悲運がこの様にして漸く(ようやく)道が開けて行ったのでした。
だからこそ、硫曹時代の先輩星野久道氏が明治精錬株式会社の技師長として、給料も今の倍額百五十円払うという誘いを断ったのでありました。
このようにして合併後の大日本人造は、戦後の反動不況を克服したのでした。
四十四年の上期には一割配当を復活し、翌、四十五年には農村の購買力も増進して業績は特に向上した。
いい成績を上げながら明治から昭和と移行して行ったのでした。
五、営業所長に任命される
昭和に入って早々に、彼は長兄の金太郎が亡くなりました。
一家倒産の後、朝鮮に渡っていたのでした。
義三は何をおいても駆け付けたかったのですが、会社の勤務の関係から、どうしても都合がつかなかったのです。
こうした寂しい思いでいた時、更に彼に孤独感を与えたのは、支持する西川博士が業務視察のために渡欧してしまったことでした。
横浜港に見送った時、彼は
「何時の日か自分もこうなりたい」
と密かな思いを抱いたのでした。
大正二年には会社の資本金が、千二百五十万円になったのでした。
各種肥料の年産は八百万トンに達し販路も国内ばかりでなく、遠くインド、オーストラリア、にまで及ぶようになったのでした。
ところが、大正三年六月二十八日、バルカン半島に起こった銃声は、欧州各国を戦乱の巷と化してしまったのです。
八月二十三日には我が国にも、ついに参戦のやむなきに至ってしまうのでした。
ここに第一次世界大戦が始まったのでした。
この戦争は、はじめ肥料工業界にとって甚だ(はなはだ)ありがたくない戦争だったのです。
というのはドイツ製品の輸入停止によって他の化学工業部門だけは公共に向かったのに反し、この業界は、米価の低落,とか絹糸の安値によって農村の購買力が急激に減退しました。
その上戦争物資の輸送量の増大は運賃の暴騰を招くことになり原料および商品のコスト高をも来たしたのです。
いきおい経営が極めて困難になったのでした。この多難な時期に社長の鶴原氏が逝去されたのです。
これは大正三年十二月二日のことでした。
そこで常務取締役の平田氏が専務に昇格して会社の代表者になったのですが、翌年夏、安道兼道氏が取締会長に就任されたのでした。
彼は平田専務のときに営業部の販売課長になったのですが、このときは三十五歳の正月だったのです。
このように商売のやりにくいときにこの職で努力した結果が、やがて東京営業所長の大任を命じられることになったのでした。
大正五年の五月のことでした。
彼は社用で能登の燐鉱調査に出張しその帰路、金沢を経て大阪の支店に立ち寄ると、本社から電報で至急帰郷すべしということなのでした。
その理由がはっきりはしなかったのですが、兎にも角にも急いで帰郷したのでした。
ところがなんと予想だにしなかったことでした。
東京営業所長任命だというのです。
彼は、そんな大任の器ではないと極力辞退したのですがすでに発表した後だから会社としてもひっこめるわけにはいかないというのですが、しかしそのとき彼は
「私は辞令を頂く前に一応ご了解を願いたい事があります。
それは、営業者といえば商売が元であります。
ところがこの商売というのはどっちかというと駆け引きというのが重要な部分であります。
ということはこの駆け引きには、必ずといっていい程、嘘が混じります。
しかしながら、私は平素の心がけとして嘘は言わないという信念で今日までやってきたのです。
従いまして今回の、任命では駆け引きせよとか、嘘も方便というような意味も含まれているというのであれば私には絶対勤まりません。」
と申し出たのです。
すると社長は。
「それは勿論、君の自由にやってくれたまえ。」
と言ってくれたのでした。
そこで彼は辞令を貰い、いよいよ日本第一の肥料会社の営業を担当することになったのでした。
一方世界大戦はますます深刻の度を加えてきたのでした。
当初と比べて業界もようやくく好転し、彼が営業所長となった下期からは特別配当ができる程になったのです。
翌六年、会社の創立三十周年を迎えて、四月になった頃、上野の精養軒で、時の寺内総理大臣始め、朝野の名士を招待して盛大な祝賀会が行なわれたのでした。
尚、会社の創業に尽くされた高峰譲吉博士が、長い間の外遊から帰朝(きちょう:帰国)されたのもこの年だったのです。
つづく
