今日の川柳
介護され いつの間にやら 北枕 タカオ
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・苫米地 義三の生涯
ようこそ、苫米地義三の世界へ。
このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。
では、気長にお読みください。
金次郎の韓国の会社
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二、学資貸費生となる
こうして、学資を送ってもらうわけには行かなくなった彼は、学資貸費生になろうと決意した。
その手続きをし、幸いにして許されて毎月八円づつ大阪の住友吉右え門の奨学金を受ける事になったのである。
この奨学金というのは学校卒業後は毎月返却してゆかねばならないものだった。
ところが、保証人を立てなければならないというものだった。
これにはちょっと困ったのであった。
そこで在学中の保障人を依頼した。
中村勝太郎氏をたずねて頼んだが、この人は前に商船学校の貸費生野保証人になったことがあってこの学生が航海のとき渡米して帰らなかった。
そこで保障に出会った中村氏が返金の、責任を取らされたというのである。
どうも学資貸費の保障だけはやりたくないというのであった。
しかし、他に頼む人もいないので、兎も角頼み込んで保証人になってもらったのであった。
だが、どう考えても、この
「貸費」
というのが気になってとてもいやな気持ちにさせるのであった。
それに自分もアメリカに留学したいと思っていただけに、中村氏が言った言葉が妙に響いたものだったのである。
この頃、彼の下宿先は長栄館といって本郷の竜岡町にあって三畳間のうす暗い部屋でした。
貸費生という肩身の狭い思いをしながら勉強を続けていたのであった。
唯、彼の勉強法は少し変わっていたのかもしれない。
学生の勉強というものは大抵の場合、教科書を中心になされるものであるが、彼は教科書も勿論怠りなく勉強したけれども、社会科学の方面の本もよく読んでいたのである。
早稲田の校外生となって、政治経済学講義録を読んだのもこの頃であった。
また、言論文章に趣味をもち
徳富蘇峰の「国民雑誌」、
三宅雪嶺の「日本および日本人」
などは常に愛読していたのである。
そのうえ修養に関する講演会にもよく出かけ、
海老名弾正、
松村介石、
植村正久
など日曜教会の説教や、田中智学、大内青巒等の仏教講演も聴いた。
こうした努力は学業の成績にも現れ、二年に進級の時は、次席という優れたもので、平島校長賞を授与されたほどであった。
しかも学校を休んだことが無かったので無欠席賞を与えられた。
彼の人格形成への道はかくて徐々に進められていったのであった。
※一部ページ抜け※
ああ、体が破滅しようとしております。
わたしは万感に堪えません。
こんな、天道などあるものですか・・・私の体は病魔に襲われて身動きが取れません。
悪くするとこの体が破滅してしまいそうなのです。
私は今まで天道に背いた事は無かったと思っているのですが、一体、私は何か悪い事をしたとでもいうのでしょうか。
今まさに天罰でも受けているような状態なのです。
ああ、学校における試験は日々に迫りて学友はみんな勉強に全力をかけているのである。
一人僕だけが墨書に熱することができていないのである。
体の調子がまだまだ本物ではなく痛恨の至りである。
ああ、私の将来はどうなるのであろうか。神はどう導いてくれるのだろうか。神にゆだねるばかりである。
このように、病中にあって神にひたすら願うばかりである。
彼は病気と勉強に悩みながらも自分を見極めることに怠りはしなかったのである。
足尾銅山の鉱毒事件の幻灯を見た直後、冶金家になろうとしてみたり、化学工業界は酸曹会社にも見られるように、体の弱い自分には有害だと考えて醸造会に入ってみようかと決心し学校で先生にもその旨を申し出たことも有ったのである。
所がこの病中において、彼が一生をささげるべき分野が忽然として開けたのであった。
明治三十五年四月十九日
私は,この身を実業界、しかも工業界に入り、将来大いにこれを成功させたいと思うのである。
殖産興業を盛んにして国家を隆盛させたいと思うのです。
これはまさに国家の隆盛と合致するものなのである。
ああ、実業界はまさに多事多難の時である。
たとえば私は、--ただ単なる一個人ではあるのだが---工業界といえども国家経済に伴うのである。
国家の工業は、国家の経済に盛衰によるものであるということになるのである。
工業の盛衰は経済の盛衰によって決まるのである。
経済界が不況であればどんなに工業が盛んであってもよろしくないということになります。
私は、まさに、工業経済を収めてこの分野に適しておるかどうか今それを自覚しようとしてしているところなのである。
今日ある苫米地義三は病中にあってこの厳しい環境の中で其の精神力は驚くべきことだったのである。
それでも食いもあれば悩みもあったのであった。しか始祖の中でも一番つらかったのはまずしいことなmのであった。
明治三十五年5月十六日
私は病気荷なって二ヶ月が立とうとしている。いまだ感知してはいない。
病気の室がよくないのではないかと思う。意思は養生するように進めて入る。
静養を勧めているのです。
ただ薬も休んではいけないという事ですが、私は金がなくて、薬が手に入らないのである。
体の衰弱を回復するために静養もままならないのである。
かつて札幌に置いて病気した時に、全治して無かったと深く反省するものである。
こうなるとは創造もしなかったのである。
このように、天運のないことは私の苦しむところである。
学校を出て、その後アメリカ留学も希望である。
にもかかわらずこのように悪くすると不治の病になるのではないかと心配である。
これで、天を恨む様にになっているのである。
特にこのように問題は{金}のことである。
学士は欠乏し、病気にもこのように金がかかるというわけである。
ああ、神よ、何とか、助けてくれたまえ。
この頃は退院して、龍岡町で寝たり起きたりぶらぶらしていたのであった。
時には散歩に出たり、演説会などにも行ったものである。
アメリカ海軍のケンタッキー号乗組員と、第一高等学校との野球の試合を見に行ったのもこの頃であった。
この時の野球は、全く一高の独り相撲の感があり、八回の表裏を終わったときは34対1というまるでラグビー試合のスコアのような大量得点で一高が勝っていた。
しかし、こうした大敗を喫しながらも、アメリカチームは泰然自若としてゲームを進行このときの印象を持って、アメリカ人の性格を知ることができたのであった。
後年、太平洋戦争に対する判断に役立っていたような気がするのである。
人間の根本思想というものは、そんなの猫の目のように変わるものではないのである。
これは当時結成されたばかりの演説会を聞きに行った時の彼の、日記に詳しいのである。
明治三十五年六月七日
本日、中央会堂に置いて演説会あり。その弁士の多くは名のある人たちであった。聴衆は公会堂も満杯であった。
弁者も熱狂していたのである。
しかしながらその内容は新規を狙っていて実際には取るにたれるものではなかったと思われるのである。
物の見方も表面的である。
実際の工業の何たるかを知っているとは言い難いものでした。
私としては、あえて聞くに堪えないとは言わないのではありますが工業がますます発展的にいきたいと思うのです。
もっともっと発展して尚且つ働く労働者をもっと保護しなければならないと思うのです。
といっても、経済と離れてはいけないと思うのです。
利益を上げて労働者を保護していくには工業しかないと思われるのです。
それにしては実際の事について疎いと思われるのです。
特に、土地を私有してはならないということまで言っては本来、貯蓄を奨励してこれを否定するとはとんでもないと思うのですよ。
労働者が倹約し勤勉を守り私財を蓄えて土地を買うのに何の問題があるだろうか。
工業に携わる人たちは今やそこまでいっているのである。
このようにあれこれを考えてみると、私は経済を修め、もって工業を元として立てる社会を作っていくことこそ日本の行く道ではないかと思うのである。
選考が違うのではあるけれども抗議録によって政治経済の学問をも究めようとしていた彼にして当然考えられる分野でもあるのでありこうして社会を批判し自分に対して鞭打っているようなのである。
彼の今日の思想はこの当時既に芽生えているように思われるのである。
貧窮のどん底あえぎながらも社会主義思想には走らなかったのである。
彼はこの年の夏休みに青森の故郷に帰って病を養った。
しかし既に一家離散した苫米地家である。
しかもこの年の早春に、親しい祖母を失っていた彼にとっては、故郷は必ずしも楽しいところではなかったのであった。
ただ、その風景だけは浩然(こうぜん:ゆったりとした)の気を養ってくれるただ一つのものであった。
四、論文「病院公有論」を発表
つづく
