今日の川柳

 

寝ていても 団扇(うちわ)の動く 親心 タカオ

 

いつも子供の数だけウチワを用意していた母

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ウェブック

・苫米地 義三の生涯

ようこそ、苫米地義三の世界へ。

このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。

では、気長にお読みください。

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母 タケ

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 >>>奮起すべきだぞ、おまえは。>>>


明治三十五年一月二十六日

この日を利用して、

山本、

松井、

秋田、

岩井


四君と共に


王子製薬

酸曹会社、

石井醤油醸造工場


を見、


さらに道を橋場にとり、

東京ガス会社第二分工場を見、

午後十時寄宿す。


久しぶりにて

天気がよく晴れた

日になったのでした。

塵芥の多い都を出るのは

精神的に爽快至極であります。


 さてこの日見た硫酸ガスが

鼻穴を刺激するアルカリ製造の

化学工業中硫酸製造所において

ここの場所などはいずれ

職工の衛生に害があることには

異論はない。

このことは深く考えされることであった。

次に見学した石井醤油工場は

三千五百石の製造でなかなか

盛んであるが作り方とか

経営が古臭い感じだ。

というか、

そういうところがある。

あまり学問的なところがない

という感じである。

まあ個人的経営というか

そういう感じがしたものである。

ガス会社は

先輩の毛利さんの

関係した会社である。


主に彼が奔走している

ところであるが、

見るに服装などの品位が

見られないところが

気にかかる。

ガス事業はなかなか盛んであったが

ここでは水素ガスをも作っている。

其のうえ石炭ガスも

加えて店頭用にもしたいと

考えているようだ。


私の考える化学工業ではないな、

という風に考えたのである。


自分としてどういう具合に

選んだらいいか

まだはっきりしていないのであった。


苦しいわが胸の内である。

悲しい事にこの心は

未だ定まらないと

いうのが現実であった。


 明治三十五年1月二十八日


この日、父から手紙が来た。


私に送金しようとして

金策に出たのではあるが

僅かの金さえもできなかった

ということであった。


この二十三日には、

区の裁判所で大谷地は

公売にされ落札は小樽銀行に

帰してしまったのである。


ああ、父が食べるものも食べず、

心身ともに疲労し、

苦心惨憺漸く(ようやく)払い下げられた

北海道では屈指と

いわれた第一農場も、

ついにかくのごとき

悲惨な末路に

なってしまったのである。


我われはとうとう財産が

なくなり一人の貧しい

人間になってしまったのだ。

ああ、

父にとっては十年の苦労が

このような状態になってしまったのだと。


これをこれとすべきか

非としたらいいのか。


すべてにおいて嘆きの

言葉しか出てこないのである。


唖然としてただ悲しい涙が

出るばかりである。


我々はこの嘆きを

なんとしても回復して

いかなければならないと

思うのでした。



これまで、

何のために高等小学校の

四年間を寂しく寄宿して

勉強したのであったか、

吹雪をついて札幌の町を

牛乳配達をして歩いたのか。


これはすべて父の成功を

願ってのことだった

のではないのか。


しかしこうなって

しまったからといって、

次兄を恨む様な気にも

ならないのである。


むしろこのことがあって以来、

益々親しい思慕が

沸いてきたのであった。


今や苫米地家は

全く没落してしまったのであった。

つづく