今日の川柳
今日もまた 散歩帰りの 酒うまし タカオ
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ウェブック・苫米地 義三の生涯
ようこそ、苫米地義三の世界へ。
このブログは当地出身の一政治家の生涯を自分の私見も交えて難しい原本をなるべく分かり易いようにと記述したものです。
では、気長にお読みください。
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父・金次郎
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<<<…しかしながら、残念なことにここで大きなアクシデントが起こります。>>>
というのは
開発で得た木材とか農作物は二男の造酒弥(ミキヤ)がこれを売り、そして生活物資を買って来ていたのですがそれが商売上うまくいかなかったのでした。
それは借金となり、この整理のために金次郎翁は農場を知人に譲渡、手放して清算しようとしたのでした。
あの苦労に九労を重ねた膨大な農場を泣く泣く手放したのでした。
ことここにいたって苫米地家は苦難の人生を歩みだします。
第一農場を手放さなければならぬ余儀なき事情にあい、そのうえ、資金が欠乏し、明治三十七年残った農場も他人に譲渡してしまうのです。
そして、自分は次男の造酒弥(みきや)のいる朝鮮に渡ってしまうのです。
彼は朝鮮の、成歓ノ町で農業指導に努力したのでした。
・・・が大正十一年三月十八日、七十二歳、京城で死去したのでした。
先覚者として、翁の一生は波乱万丈、このことだけでも大きな物語にでもなるくらいであったと思われるのです。
自由平等の思想が漸く(ようやく)起きてきたという明治時代の始めに、彼はいち早く主人とか使用人とか階級を取り除き、出来上がった収益もみんなで分かち合うというものの考え方をもっていたのでした。
当時のしきたりだと自分が七分、小作人は三分というような時代に、自分は四分、小作人に六分を与えていたのでした。
こうしたことは開墾でもして一儲けしようなどと考える人にはとても真似のできないことでもあったのでした。
このように自身を犠牲にしてでもこれを実践したことは、実に尊い教えとでもいえるものでした。
今なおそれは三大農場が残されていることでした。
昭和六年には翁を懐かしむ人々の手で第一農場たる、大谷地に大きな記念碑が建てられたのでした。
「開拓記念 苫米地金次郎翁碑」
碑に刻まれた文字は渋沢栄一の揮毫(きごう)に依るものでした。
渋沢氏はこれを書いてまもなく死去し、この碑の文字が絶筆となったのでありました。
「苫米地金次郎翁は盛岡藩士にして世よ奥州北郡相坂村に住む。
幼にして父を失い年少にして家督を継いだ。
その後村政にも携わったのであった。
壮年になって明治二十年北海道の開拓を志した。
明治二十三年陽春全家をあげ同志を募り移住した。
そして、苦労の末目的を達したのである。
まことにわが郷土創成の恩人である。
翁は人格識見高邁なるに加え徳操仁慈人に優れ実践と窮行範をたれその高徳偉籍ははまさにこの地と共に悠久たることを望みここに碑をたててこれを記念するものである。」
いつの世も先駆者は受難の道を辿るものであるが翁が心血を注いで開拓したこの地に永住し得なかったことに涙するのは、一人苫米地氏一家のみではなく、翁と共に移住した多くの人々の共通の嘆きでもあったのでした。