苫米地義三

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シニア・パソコンクラブで文化祭の作品作りをした時のことです。


十和田市の出身の有名人


というのがそれでした。


菅原都づ子

加藤源三

江渡狄嶺(えとてきれい)

苫米地義三(とまべちぎぞう)


でした。


苫米地義三さんを調べてみましたら、この人は相当すごい人なんですね。


戦後、国務大臣、厚生大臣などを歴任、戦後日本の再建に大きな力を発揮したのは何と言っても、日米講和条約でしょう。


その時、日本代表は吉田茂、一萬田 尚登(いちまた ひさと)、池田隼人、それともう一人名前は忘れました。

次に苫米地義三さんでした。        


さてこの人は北国青森の片田舎で育ちました。

彼がどういう具合でこのような人物になったのかという


これが関心を持った理由です。


これはたいへんなことでした。

調べてみますと、驚きました。

これまでまるで知らなかったことが恥ずかしいくらいでした。


世の中、こんなこともあるんだ・・これが実感でした。

それは途方もない彼の人間性がすべてを物語っていたのでした・・・。


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苫米地義三…この人の、人生を大きく分けると三つに分けられると思います。


一、子供のころから大学を卒業するまで



二、肥料会社に就職し、40数社というかなりの会社の相談役・専務・社長になった頃までです



三、政界に入ってからの人生


 まず、父が北海道に渡ると、子供の頃から、その手伝いをしに彼も北海道に渡る事になります。


東京工業大学に入学、この間におおきな病気に侵されるのでした。


お金がないので奨学資金をもらう。


卒業・就職・・認められる-まで--かなりの会社の、顧問とか、専務とかやって彼の実力が認められる。


彼が生まれた相坂という村は現在の青森県十和田市の、端っこにある村で戸数も800軒くらいの奥入瀬川に張り付いたような小さな村でした。


遠く北には八甲田山が見えすぐそこには大きな奥入瀬川が流れていました。

春の来るのは遅く、冬の来るのが早い北国の厳しい気候の中で育ちました。


父の名は金次郎、農業と造り酒屋を営んでいました。

恵まれた家庭でしたが彼の父という人は、厳格な考えを持っていた人でしたがたいへんな勉強家で有り開明的(優れた洞察に基づいて,新たな分野に 積極的に取り組む)な考えを持った人でした。



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<編集苦労話>


かなりな長編で、半分まで(7万字)書いたところで、痛恨のパソコン操作ミス、あっという間に消失。

この経験を2度繰り返し、3年もの歳月をかけ、総字数約27万字を打破し、ここに完成。

おかげさまで、一本指のタイピングはかなりなものと自負しております。

それでは、気長にお付き合いください。

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↓恩師・加藤源三と義三(右)