昨日書いたように、米国の独立宣言は、君主に主権があった時代から脱皮しようとして、「すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と宣言する事により、個人の自由と人権の保障の根拠が神様にあるとしました。人間世界を超えて、創造主に最終的権威があるとしたわけです。最終的権威とは、つまり、主権を意味し、神様に主権がある事を認めた事になります。

 

原理講論にもそこに関連した内容があって、それが個性真理体のお話であり、祝福家庭にとって、遠い国のお話ではありません。さらに、原理講論には、神様の主権のお話が出てきます。

 

「神様の主権」というのは、カルビンの政治や、イランの神権政治か何かを指す言葉のように、誤解をされる可能性がある言葉です。統一教会にも、「もし韓国民の半分が統一教会員になれば、選挙で勝って、他の人を従わせる事ができる」などと言ったリーダーもいましたが、それは圧政を意味し、本来の神様の主権ではありません。本来の神様の主権とは、個人の自由と人権を保障するものです。

 

原理講論では、人間の堕落により、神様の主権が奪われ、さらに、人間の自由が失われたと言っています。神様の主権が復帰される事と、人間の自由が復帰されるのが結びついているのは、米国の例を見てもわかる事です。

 

この文章は、祝福家庭を対象に書いているので、さらに原理に基づいた内容に入りますが、神様の主権が奪われ、さらに、人間の自由が失われる事になった堕落とは、単に性的堕落の事ではありません。単に性的堕落の事だと思うと、純潔を守れば、それだけで良いかのように信仰する可能性もありますが、アダム家庭の堕落は、親の世代と子供の世代の二世代に渡って起きた事です。

 

ダンベリーを出た頃、文鮮明師は、「堕落は二世代の過ち、すなわち、カインがアベルを殺した事で完結した」という耳慣れないお話をされて、リーダー達は驚いた事があります。同じ内容を、文顯進会長は言っています。

 

この理解に基づくと、2001年1月13日の神様王権即位式の前の、2000年11月11日に、文鮮明師が「父子協助時代宣言」をした意味が見えてきます。父子とは二代の事で、アダムとアダムの長子が持つはずだった権威が復帰されて、神様が主権を取り戻す事ができる条件ができる事を意味します。その12年後の2013年1月13日が基元節のはずでした。ところが、統一運動の分裂により、生命を賭けて成就を宣言したのに、条件を失った文鮮明師は、基元節の前に他界し、統一運動は、混乱の中に陥りました。この内容は、この文章では大雑把にしか書くことができませんが、実に悲劇的な事でした。

 

「愛国者」というタイトルの文章なのに、神学的になり過ぎてしまうかもしれませんが、日本は母の国として意図された国です。統一運動の中で愛国者の道を歩んだ人達は、日本を守ろうとしたはずで、守るためには、神様の摂理の観点で振り返る必要があるはずです。

 

私は統一運動に入ったとは思っていても、統一教会に入ったとは思っていませんが、他にもそのような方達はいるでしょう。しかし、統一運動は、統一教会になり、統一教会は、お金集めのビジネスに変わり、若くして献身し、組織外部で信念を守った人達は、家と故郷を失った人達のようになったかもしれません。

 

私は、神様の摂理が生き続けていると信じています。それは今の統一教会の組織の事ではありません。文顯進会長は、「神様は個人と家庭に働くのであって、組織に働くのではありません。聖書や原理講論はそれを示しています。組織に良心はありません。」と語られるのですが、その通りだと思います。私たちは、個人であり、家庭です。私たちは、個人として、家庭として、永遠に続く生命があります。

 

(続く)