韓鶴子総裁が「神様は性相的男性格主体では無い」と語る事の問題に関する文章を掲載しました。(リンク

 

米国の統一教会員の中には、韓鶴子総裁の思想と言動がおかしいし、文鮮明師を否定するものであるとして、文鮮明師の尊厳を守る請願書運動が起きています。どんどん参加したら良いと思いますが、「独生女信仰はおかしい。文鮮明師を信じる。」と言う方達の中で、文顯進会長が、文鮮明師の使命を引き継いだ正当な後継者であるとは考えず、むしろ、財産を奪った背信者であると、箒で掃き捨てるような考え方も、見受けられます。

 

文鮮明師の尊厳を守ろうとする事そのものは、大事な事で、そのような方が統一教会の中で増えるのは良い事ですが、方向性を間違うと、とんでも無いことになるので、少し考えておきたく思います。

 

創造主である神様がいると信じるか信じないかは、信じるか信じないかのどちらかを選ぶか、わからないと諦めるかしかありません。信じたら、神様を求める必要性が出てきます。それに対して「信じない」という強い立場は、一種の無神論信仰です。また、諦めたなら、無法、無原理の世界に入る可能性が高まります。私たちの周りには、神様から引き離す川のようなものが流れているからです。

 

私達は、神様に関してどんな考え方をしたとしても、無神論や不可知論も含めて、何かを信じる選択をする事を避ける事はできないはずです。これは、私が文鮮明師の教えに出会う前に、様々に神様を否定する考え方の中で体験した事です。

 

原理の本の中で文鮮明師が明らかにしたのは、神様の摂理は一点から始まり展開するという事です。性相的男性格主体である神様の一人息子だったのがアダムであり、そのアダム家庭から神様の理想世界は展開するはずでした。雨後のタケノコのように、あっちこっちに神様の子が出てきたのではありません。

 

創造の原理がそのようになっているように、復帰の原理も同じです。原理の復帰摂理の中に描かれているのは、神様が、摂理を始める一点を探した歴史です。そのとてつもない苦労の果てに見出されたのが、第二アダムであり、第三アダムでした。

 

第二アダムは家庭を持つことができず、霊的救いしかもたらせなかったのは、原理の本に書かれています。ゆえに、霊肉の救いをもたらす第三アダムが必要でした。その第三アダムが文鮮明師であると、統一教会員は信じましたし、韓夫人との聖婚により、真の父母となって、イエス・キリストが与える事ができなかった、祝福を与えることができるようになったと信じたはずです。

 

文顯進会長を、箒で掃き捨てるような考え方も見受けられるので、その方達に考えてみて頂きたい事があります。

 

それは、「韓夫人が独生女信仰を持って背信し、真の母の資格を失ったら、文鮮明師は一人で真の父母の立場を維持できるか?」という事、そして、「もしも一人では真の父母の立場を維持できないのなら、文鮮明師夫妻から祝福された人達は、神様によって今も祝福家庭として認定されているのか?」という事です。

 

もう一つ、考えてみて頂きたい事があります。

 

相対を見つけられず、霊的救いしかもたらせなかったのが第二アダムです。キリスト教徒は、イエス様をひたすら信じました。そこには救いの限界があった事を原理講論は教えていますが、霊的救いは受けました。それに対して、イエス様を十字架に追い込んだユダヤの人達は悲惨な歴史を辿ることになりました。

 

では、文鮮明師から祝福を受けた人達は、キリスト教徒のような立場に立っているでしょうか、それとも、ユダヤ人のような立場に立っているでしょうか?

 

どうして韓夫人は、独生女のような思想を持ち、どうして文鮮明師はまるで十字架にかかるかのように、約束した基元節の前に他界したのかを知る時に、目の前に現れる結論は、厳しいものだと考えられます。

 

私は、分裂の後、文顯進会長から、「“祝福家庭”は、天から祝福家庭として求められていない」と、目の前で直接に言われて、その言葉を受け入れた後、贖罪の意味の特別祝福を受けました。

 

祝福は、人間の中で神様から祝福を授ける権威を与えられた人により与えられ、その人の勝利圏の中で成立するものです。その人がどなたなのか、真理と真実を探して判断するのは、各自の責任分担のはずです。

 

これを読まれている多くの方達は、文顯進会長が正しいと信じる方達のはずです。でも、文顯進会長を箒で掃き捨てるような考え方も、請願書運動が出てくる中で見受けるので、一考の材料として書きました。