山の湖に行って来ました。

 

このような場所に行くと、私は縦的軸と横的軸を思い出します。私は物理は得意ではないですが、湖は完璧に水平です。その水平を生み出しているのは、重力のはずです。重力は縦的な力で主体ですが、見えません。見えているのは水面の完璧な水平です。

 

私は祝福の2年ほど前にマッチングを受けました。マッチングの後、祈りの中で感じたのは、縦的軸に合わせる時、水平の向こう側に現れる唯一の女性が、マッチングされた相手だということでした。今、それから何十年も経って、「被造世界に対しては、性相的な男性格主体」であると原理講論で説明されている神様に祈る時に感じるのは、私だけでは神様の半分だけの存在であり、相対と共にあってこそ、神様の全体を表すという事です。

 

ファミリー修練会と原理修練会に関する内容を継続しようとしているのですが、私が上記のように感じるのは、誰にも当てはまるものではないかもしれないし、私の理解が理解の天井のような障害になってはいけないと思うのですが、なるべく具体的にするために書きました。

 

さて、上記の内容に関係する内容として、原理講論には、間接主管圏と直接主管圏というお話が、私には思い浮かびます。間接主管圏は、人間が責任分担を全うしながら完成する期間であり、「取って食べずに完成」しなければならなかったという説明がされています。ちなみに、統一思想では、この責任分担がもっと広く定義されていて、「心情を中心として性相と形状が一つになる」事であり、「真善美を追求する生心が衣食住性を追求する肉心を主管し、愛を基盤とした真善美の生活を中心にして、衣食住の生活が営まれ」る事であるとされています。

 

初めて統一思想に書かれていることを読むと異質に感じるかも知れませんが、文顯進会長は、純潔というのは神様にアラインすることによる副産物のようなもので、神様の真理と善と義を求めなければならないというお話をされます。また、堕落というのは単純に性的に堕落したのではなくて、神様との関係を切ってしまったことだ、というお話をされます。

 

こうした内容を説明すると長くなってしまうので、直接主管圏に関する内容に移りますが、原理講論には以下のようにあります。

 

「神を中心として、ある主体と対照が合性一体化して四位基台をつくり、神と心情において一体となり、主体の意のままに愛と美を完全に授受して、善の目的を完成することを直接主管という。したがって、直接主管圏とは直ちに完成圏を意味する。」

 

昨日、原理講論の図をもとにして、下記の図を掲載しましたが、“完成圏(直接主管圏)”となっている、線の一番上の部分の事です。(ちなみに、1966年版を元にした韓国語の原理講論では、“直接主管圏(完成圏)”となっています。)

 

“完成圏(直接主管圏)”までの成長期間は、個人として達成するのが本来、神様から期待されていたことで、アダムも成長期間を勝利するはずでしたし、家庭を持てなかったイエス・キリストに関して、「生霊体級の霊人」であると原理講論のキリスト論で説明されている事を見ても、成長期間は個人として勝利する事が意図されているのがわかります。

 

ちなみに、イエス・キリストの弟子たちが生命体級の霊人であるとキリスト論で説明されているのは、堕落が長成期完成級だったので、どんなに弟子たちが努力しても、原罪を持っていては、生霊体になる歩みをすることができないから、と解釈できます。

 

さて、原理講論の中の直接主管圏の説明は以下のように続いています。

 

「人間に対する神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という。」

 

統一教会で独生女信仰を広めるにおいては、都合が悪い内容で、原理講論を過去のものとして葬ろうとしている事に関連した内容かもしれません。

 

原理講論の中の直接主管圏の説明を続けます。

 

「このような人間は、神の心情を体恤し、神のみ旨が完全に分かって、実践するようになるので、あたかも、頭脳が、命令ならざる命令で四肢五体を動かすように、人間も、神の、命令ならざる命令により、神のみ旨とおりに動いて、創造目的を成し遂げていくようになるのである。」

 

統一教会で原理講義を聞いていた頃、この内容を統一教会では、メシアは超人的能力を持っていて全てを分かって間違いをしない、という信仰観に結びつけていたという気がします。その信仰観は、第一祝福完成(個性完成)の説明と結びついていて、第一祝福完成を完成したイエス・キリストが、キリスト教において超人として描かれているのを模範にするかのように、文鮮明師を神格化し、全てがわかり間違いをしない超人であるかのように信仰して、一字一句に絶対服従する信仰を統一教会が教えていたことに結びついていた、という気がします。

 

この第一祝福完成(個性完成)に関する理解は、前述の統一思想の説明と大きく違います。統一思想というのも、文鮮明師の古い教えに基づいたものです。

 

では、原理講論で直接主管圏(完成圏)として説明されているのは何なのでしょうか?

 

「神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成する」という原理講論の説明は、アダム、エバ、という個人の超人性に関する説明ではなくて、神様を中心とした家庭における関係性を基にした説明であると考えるのが正当であると、私には思われます。

 

実は、この「完成とは関係性を基にしている」というのは、文顯進会長の説明です。文顯進会長が説明するのは、完成には二つの考え方があって、一つはギリシャ哲学的な捉え方、もう一つがアジア的な捉え方で、ギリシャ哲学的な捉え方においては、完成とは目的地でそれ以上の発展がないのに対して、アジア的な捉え方においては、完成とは継続的なアラインメントのことであり、完成しても発展や成長があるという捉え方であると話されます。

 

ギリシャ哲学的な完成の概念は、キリスト教に影響を与えました。それに対してアジア的な完成の概念が、文鮮明師が持っていた完成の概念であったというのです。その完成とは、関係性に基づいたものであり、四大心情圏に結びつきます。

 

子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛という四大心情圏において、発展と成長が継続されるのか、それとも、完成したら止まるのかと言えば、継続的に成長と発展があるのです。

 

その完成した家庭の先例を立てるのが、真の父母、真の家庭であり、いかに神様に侍り、神様の理想家庭において、真の息子娘とはどのようなものであり、真の兄弟姉妹とはどのようなものであり、真の夫婦とはどのようなものであり、真の父母とはどのようなものであるかを示す家庭となり、人間の完成の道を示します。人間の完成は、第一祝福の個性完成に留まらず、家庭の関係性に基づいているのですから、私達にその関係性の先例が必要なのは自明です。

 

そして、祝福家庭は拡大された真の家庭として、神様の直接主管圏に接木された家庭となって、真の家庭を模範としながら、自分達が世界に対する模範を示す家庭になるというのが、神様の摂理であると理解します。

 

ですから、先月、ファミリー修練会において、文顯進会長の前で話す事ができたのは、カインの子女としてアダム家庭を復帰する責任を果たしますという事と、世界に対するアベルとしての責任を果たします、という事だけでした。

 

(続く)