7日間のファミリー修練会、その後、4日間の原理修練会と、家族と参加する行事が7月は続きました。

 

ファミリー修練会は、電気も水道も無く、夜空に星が輝く自然の中でのキャンプでした。ハイキングに行けば、美しい山や湖がありました。これは、統一教会において、高価な建物と行事が結びついているのと対照的です。

   

 

原理修練会も、文鮮明師が説いた内容を守るもので、原理講論を過去の教えとして捨てている統一教会と対照的です。

 

人間の霊性を個人の救済の段階から、家庭の救済の段階に神様が引き上げる時代であると、文顯進会長は繰り返して語られています。それが、文鮮明師が存命する時代に何を意味するはずだったのか、今何を意味するのか、というのは、各自、各家庭が求めていかないとならないだろうと思います。

 

原理講論というものも、キリスト教信者を読者に想定して書かれたものであって、キリスト教における聖人は、独身の人であり、イエス・キリストも独身でした。家庭を持った人たちではありませんでした。信仰に打ち込めば、独身生活をするようになるというのは、ほぼどの宗教でも共通する事です。しかし、誰もが独身生活をすれば人類が滅びるのであって、独身が神様の創造の意図であるはずがありません。故に、神様の摂理は、個人の救済の段階から、家庭の救済の段階に引き上がる時が来るわけで、それが原理講論の中で予見され、文鮮明師の使命を暗示していたと見ることができます。

 

ファミリー修練会においては、毎日、文顯進会長のお話を数時間読みましたが、それを理解する土台になるのが、原理に対する理解であると思います。

 

私は原理講論を日本語では40回以上、韓国語では5回以上読みましたが、まだ完全に理解しているとは思いません。統一教会で行われていた原理修練会にも何度も出たことがありますが、そこには問題があったのを今なら感じます。その問題の根本は、文顯進会長が指摘するように、以下のポイントにあると思われます。

 

「お父様は、原理講論を通して、キリスト教のcreed(信仰概念)をdeconstruct (脱構築)しようとしました。キリスト教では、イエス様を神格化して、『ただイエス様を信じれば天国に行く』と信じました。しかし、お父様はイエス様が人間であった事を明らかにし、キリスト教のcreedをdeconstructしようとしました。ところが、統一教会では、キリスト教のcreedを持ち込んで来て、“イエス様“を”真の父母様”に置き換えて、ただ真の父母様を信じ祝福を受ければ救われるかのように教えました。」

 

私は今回、原理講義を聞きながら、統一教会が原理の何をどのように間違って解釈したかについて、様々に思うところがありました。

 

でも、それを書く前に、統一教会で霊的生死の分岐点となったと思われる、真の子女と祝福家庭のアベル・カイン関係に関連する内容について書いておきたいと思います。

 

統一教会の原理講義においては、堕落とは霊的堕落と肉的堕落があった、という説明をしました。どちらも、父母であるアダムとエバの世代の過ちです。確かに、原理講論を見ても、そのように解釈できます。しかし、ダンベリー収監を終えた頃、リーダー達に向けて、文鮮明師は、堕落とはアダムとエバの堕落だけではなくて、カインによるアベルの殺害も含まれるというお話をして、驚いたリーダーの一人が、教会員にそのお話を伝えたことがあります。私はそれを聞きました。でも、そのお話は、時間の経過と共に、統一教会では失われました。

 

でも、これと同じ内容を、文顯進会長はお話しています。つまり、堕落とは父母の世代の過ちの事だけではなく、子女の世代の過ちの、二世代にわたる過ちであり、それを蕩減復帰しなければならないというお話です。それが、真の子女と祝福家庭のアベル・カイン関係に関する内容となり、祝福家庭は、復帰されたカインとして、真の家庭復帰において、重要な使命がある、というお話につながります。

 

統一教会の信仰生活の講義においては、信仰基台は万物復帰によって、実体基台は伝道によってなされて、そこにメシアを迎える、つまり祝福を受けるという講義をすることがありました。それなら、教会にいて、一生懸命に献金し、伝道すれば良い事になります。文鮮明師も、わかりやすく導くために、まだ御自分の子女も幼かった初期の段階において、そのような説明をしたかも知れません。

 

でも、堕落とは父母の世代の失敗と子女の世代の失敗であり、その二世代にわたる蕩減復帰をしなければならないとすれば、信仰生活に対する理解の段階が、引き上がらなければならない時があった、と思われます。それが、文顯進会長が、後継者として登場した1998年からの時期だと思われます。

 

祝福家庭が根本的問題にぶつかったのも、この時期からだと思われます。根本的だというのは、神様が祝福家庭として認定できるかできないかの分岐点になって行った、という意味です。

 

ファミリー修練会と原理修練会に焦点を当てようとしようとしているので、これ以上は書きませんが、堕落とはアダムとエバの堕落だけではなくて、カインによるアベルの殺害も含まれるというお話を文鮮明師がしていたのを、私は聞いた事を、まず書いておきたく思います。

 

(続く)