今の時代は、神様が個人の段階の霊性から家庭の段階の霊性に人類を引き上げようとする時代だという事に関連した事で、もう少し付け加えます。

 

無神論的だった私が目に見えないものに心を向けるようになり、様々な宗教を調べた頃不思議だったのは、ほぼどの宗教でも、真剣になれば、独身生活や修道生活をするようになる事です。もしそれが人間が達成するべき状態なら、人類は滅びるしかない事になります。

 

しかし、死後の世界に気がつき始めた私は、独身生活や修道生活であったとしても、人間が正しく生きる基準がわからなければ、人間はいずれ不幸になる運命にあると思われたので、その基準を知ろうとしました。でも、そこにも混乱を見ました。宇宙の法を象徴する如来像があるように、どちらかと言えば法に重きを置く宗教もあれば、キリスト教のように愛に重きを置く宗教もありました。

 

さらに、キリスト教は特別な宗教だと感じましたが、科学を真正面から否定しなければならない内容がありました。信じる前に、まず知りたかったのが当時の私でした。

 

20歳の学生の頃でしたから、時間もありましたし、調べまくりましたが、今から思えば、見つけたものは、全て個人の段階の霊性に関わる事でした。

 

昨日書いた、霊と肉という人間の二重構造は、個人の段階の霊性に関わる様々な疑問を解くものでした。この二重構造の結論になるのは、霊の心(生心)が肉心の主体になり、真理により啓発された霊の心が肉心を主管し、霊の心が求める真善美を第一次的に、肉心が求める衣食住と性を二次的する生活が、人間がするべき生活だという事です。

 

原理講論の中ではここまで書かれていませんが、統一思想には書かれています。

 

以下は統一思想の教育論からです。

 

「生心と肉心の授受作用の中心は心情であり、愛です。結局、愛を基盤とした真美善の生活を中心にして、衣食住の生活が営まれならければならないのです。(中略)人間は幼い時には、真美善の価値はよく分かりませんが、成長するにつれて、次第に心情が発達して、愛を中心とした生活を真なる生活、美なる生活、善なる生活をするようになります。(中略)ところで人間は霊人体と肉身の二重的存在ですので、人間の成長には霊人体の成長と肉身の成長があります。人間に与えられた『生育せよ』という第一祝福は、肉身の成長の意味もありますが、主として霊人体の成長すなわち心霊基準の向上を意味しているのです。しかし霊人体も肉身を土台にして、すなわち肉身との授受作用によって成長するのです。」

 

統一教会では、教会員になり、盲目的にメシアを信じて祝福を受けることで救われるかのように信じさせ、教会員として維持する教育がありました。その中で利用されたのが、復帰摂理の中に出てくるアベル・カイン論を組織に当てはめた理屈でした。この根っこにあったのが、メシアは「人を見れば全てがわかる超人だ」と信じる事でした。しかし、メシアとはそのような超人のことではなく、そのような信仰が現実と合わない事がわかると、信仰心を失ったり、離教する事につながります。

 

しかし、本来、文鮮明師が教えていたのは、そのような統一教会内の教えと違ったのは、昔出版された本である、原理講論や統一思想を見るとわかります。

 

上記の統一思想の部分は、第一祝福である、個人の完成に関する事で、個人として人間がどのような努力をして責任分担を果たすのかを語っています。神様の創造原理からすれば、個人として人間がなすことは、「愛を基盤とした真美善の生活を中心にして、衣食住の生活」をすることで、それが第二祝福、つまり、結婚と家庭完成の準備となります。

 

そして私達祝福家庭には、個人と家庭の先例が必要です。文顯進会長は、真の父母の重要性は、完成に至る先例を見せることです、と語られる事があります。真の父母とは、信じれば救われるメシアと教える傾向があった統一教会では、異端と思われるかも知れませんが、統一思想には以下のようにあります。

 

「アダムとエバが神様のみ言を守りながら、自らの力でそのような厳しい責任分担を全うしていたならば、その子孫たちはいたって少ない責任分担だけで、すなわち父母の教えに従順に従うだけで完成できるようになっていたのです。そのような内容のためにアダムとエバの場合は、誰かの助けを受けることなく、純粋に自分たちの責任だけで三大祝福を完成しなければならなかったのです。ここでアダムとエバが完成したのちに、子女が父母の教えに従順に従うということは、父母の教え、すなわち父母の教育を受けなければならないことを意味するのです。」