仙台市荒浜地区で思うこと | 元パチンコライターのブログ

仙台市荒浜地区で思うこと

2011年3月11日。

言わずとしれた東日本大震災の日。

 

その日、その時、自分がどうしていたかというと神奈川県のオフィスでひとり、がたんごとんと落ちるパソコンをただ眺めていた。

たまたま私以外のスタッフが出払っている時に地震が発生。

大きな揺れにびっくりして、すぐに避難できるように出入り口でしゃがみこんだ。

身をかがめて揺れが収まるのを待ったが、一向に揺れは小さくならない。

 

むしろ激しさを増して、上述したようにスタッフのデスク上のパソコンは無残にも床に落下していく。

続いて本棚が宙に浮いて、中の書物を散乱させる。

幸いにも梁があったので本棚は倒れなかったが、見事にオフィスは書籍や書類で埋め尽くされた。

 

当時、オフィスは自宅から徒歩10分ほどの場所にあったので、揺れが収まったタイミングで慌てて家に帰った。

家の中は思ったほど荒れてはいなったが、その後のテレビの報道では言葉にならない津波の被害を目の当たりにする。

想像以上の大きな地震だったということを痛感させられた。

 

私が住んでいたところでは、幸いにも避難生活を余儀なくされたり生活に支障が出るほどの問題が起きたりしたことはなかった。

ただ、計画停電が始まると、急にパソコンの電源が落ちて、作成していた書類データがパーになるなど、しばらくは仕事にならない状況。

 

加えて自粛ムードの高まりもあって、広告案件はほとんど消滅。

売上は8割減となり、当時働いてもらっていたスタッフにも離れてもらうという決断をせざるを得なかった。

その後は事務所を東京に移して事業を転換させて現在に至っているという状況だ。

 

何年も仮設住宅に住んだり、愛する家族を失ったり、私以上に辛い思いをした人はたくさんいると思う。

災害は避けては通れないし、誰を責めるわけにもいかないし、本当にやるせないものだと思う。

 

だからこそもし、何か自分の仕事で防災に役立てられることがあるのならしていきたい。

そういう思いは常に持ってきたつもりだった。

 

と、そんな背景から2024年6月、宮城県へ出かけた折、最終日のハイライトとして行ってきたのは、仙台市荒浜地区にある震災遺構・荒浜小学校。

 

 

荒浜地区には約2,200人が暮らしていたそうだが、2011年当時、高くて頑丈な建物はこの小学校しかなかったらしい。

地震発生直後、荒浜小学校には児童、教職員、近隣住民の約320名が避難。

 

わずかな乾パンと水とカーテンや暗幕で寒さを耐えながらも救助のヘリを待ち、避難した全員が救助されたという。

一方で190名以上の方がお亡くなりになっているという。

 

言葉が出なかった。

 

1階の教室内には津波で流された自動車が入り込むなど、甚大な被害。

2階の床上40㎝にまで津波は達したらしい。

 

2階から3階へと続く階段の踊り場には、翌週3月17日に卒業式を迎えようとしていた生徒達が飾った風船の残骸。

 

2016年に、荒浜小学校は閉校となり、以後は震災遺構としてこの校舎は第二の役割を担っているという。

4階には様々な震災時のドキュメントや、たくさんの寄せ書き。

 

胸を打たれれるコメントの数々に、その当時の緊迫感が伝わる映像や文章。

15時55分でとまったままの、体育館の時計。

 

ちなみに2010年までは、緊急避難場所は体育館だったらしい。

前年のチリの地震を教訓に、高いところに避難した方がいいと、屋上へと変更になったそうだ。

 

 

荒浜小学校の近くには、同じく震災遺構として荒浜地区住宅基礎。

わずかに残った松の木が散見される。

 

広々とした地のところどころにはすすきや青々と育った緑に囲まれて、コンクリートの基礎がある。

津波でえぐられた地面や基礎すらボロボロになった住宅の跡地。

わずかに残ったタイル張りの浴室。

 

自分が住んでいた家が一瞬でこんな状態になったらどんな気持ちになるだろうと思うと、胸を締め付けられた。

 

夏も間近の快晴の青空。

静かな海。

 

どこまでも広々と続くいかにも平和なこの浜に、かつて大きな津波が訪れ、人々の暮らしを一変させた。

 

 

少しでも多くの人が救われる世の中になるように、こうした教訓を語り継いでいくことの重要性を深く認識。

 

日本中、世界中の人が平和で暮らせるように、自分ができることなんてほとんどないかもしれないけれど。

少しでも準備をすること、大切な人を助けられるようにすること、胸に刻んでおこうと思っている。