ムラに住む思い
気にしすぎなんじゃない?と言われることもあります。
別に、常に自分の立場を考えているわけでも、普段から「差別されるかもしれない」とひやひやしているわけでもありません。
でも気にしているかと聞かれれば、私は気にしていると答えると思います。
私のお父さん方のおじいちゃんは、両親の結婚に大反対しました。お母さんが部落の人だったからです。
おじいちゃん、おばあちゃんは貧しい環境で苦労をしました。
部落の中では部落のことをムラと呼びます。
私自身は、運動の結果の世代です。水道、電気が通り、道路が広くなったムラで、大した差別も受けずぬくぬくと育ってきました。住民同士のつながり、家族や親戚のつながりの濃いムラ、そしてその中にある学校の中で、ぬるま湯に浸かるようにして、守られてきた。
それは別にコンプレックスではなくて、自分のアイデンティティ、ルーツとなっていると、感じています。
マイノリティとしての立場に生まれたからこそ、(部落差別に限らず)様々な差別に敏感だし、人を傷つけることが怖いと感じます。ピースボートの地球一周に参加した時も、自分のおじいちゃんやおばあちゃんの経験や、自分の立場から、例えば南アでアパルトヘイトについて学んでも、より具体的に想像することができたのだと思います。自分の立場は様々な世界を見るときに、一つのフィルターとなっている。
それは ムラに生まれたということだけではなくて、女性であるとか、兄弟で一番年上だとか、大阪育ちだとか、そういうことも含まれますが、ムラに生まれたことがやはり重要な一つの要素であることは変わりないと感じます。
今の運動も過去の運動も全て正しいとは思っていません。
間違ってきたこともあると思っています。けれど、そのうえに今の自分があるのも事実です。
だからこそ、それを還元していける人になりたいと思います。運動に、ではなく。
これから運動の中で一番していくべきことは人を育てることです。
別に「運動を担う人」という意味ではありません。
差別を見抜ける感性、人の痛みに目を向けようとする想像力、自分の考えを的確に伝え、相手の考えを的確に理解するスキル、そういうものを持てる人材を育てることが大切。
自分にできることを一つずつやっていきたいし、何より人とのつながりを大事にしたいと思います。
きらりと、おばあちゃん
つらい、苦しい、家に帰りたい。
入院しているおばあちゃんから何度も聞いた言葉。
高校の修学旅行から帰ってきて、お土産で買って来たシーサーの置物を持ってお見舞いに行った時。
私が「沖縄の守り神やで。おばあちゃんの病気、治ってほしいと思って買ってきてん」と言うと、
おばあちゃんは泣いて喜んでくれた。「おおきに。いっぺんに治るわあ」
あの時のおばあちゃんの顔は、今でもよく思い出せる。声も。
結局、その少し後におばあちゃんは亡くなった。
私も、お母さんやいとこや兄弟たちも、みんなおばあちゃんが大好きだったからキツかった。
特に、おじいちゃんの悲しみようは見ていられなかった。
おばあちゃんが亡くなる1週間前、いとこに赤ちゃんが、つまりおばあちゃんのひ孫が、生まれた。
きらりという女の子。顔がしわしわで泣いたら真っ赤になるから梅干みたいでした。
結局おばあちゃんは、一度もきらりを抱けなかったし、最後のほうはぼけてしまっていたから、
生まれたことすら、理解できていたのか分からない。
でもあの時、きらりの存在は間違いなく、私たちを、支えてくれていた。
私はそれまで、「生きてるだけで意味がある」なんてただの綺麗事だと思ってきた。
でも今はその言葉が少し分かる。命ってそれだけすごい力を持っているものなんだと。
おばあちゃんときらりに感謝してる。生まれてきてくれてありがとう、生きてくれてありがとうと。
どうして2年前のことを急に書いたかというと、
ひとつは今日、川内倫子さんの写真集「cui cui」が家に届いたこと。
写真を見ていて、2年前私が経験したおばあちゃんの死ときらりの誕生は、普遍的な、でもとても大切な出来事だったんだなぁと思いました。
それから何より、昨日、おばあちゃんの命日にきらりの妹が生まれたこと。
これまた梅干みたいにしわしわで顔が赤い。
すごく嬉しくて、それできらりが生まれた時、おばあちゃんが亡くなったことを思い出しました。
2年経って消えそうになっていた感情を、思い出させてくれた。やっぱり命ってすごい。
まだ名前も決まっていない赤ちゃんへ。生まれてくれてありがとう。
フィリピン
ピースボート47thクルーズで訪れた最初の寄港地、フィリピン。
ここで私は「マパニケ村」を訪れるというオプショナルツアーをとっていました。
マパニケ村は第二次大戦中、抗日ゲリラがいるという疑いで日本軍に襲撃された村。男性は虐殺され、女性は村から少し離れた家(レッドハウスと呼ばれる)に集められ、そのまま監禁され「従軍慰安婦」にされました。マパニケ村には、元「従軍慰安婦」のロラ―タガログ語で「おばあちゃん」―たちがたくさん暮らしています。
「従軍慰安婦」についてはいろいろな見方、捉え方があると思うので、マパニケ村での体験を書く前に、私の考えを書いておこうと思います。
「性奴隷ではなく同意の上での売春である」という捉え方については、ケースバイケースで、確かに「売春」だと知った上で働きに来た女性もいたかもしれません。ただ、マパニケ村のロラたちのように、強制的に連れてこられた女性もいれば、「仕事がある」と騙されて連れてこられた人もいるはずです。
また、「売春」をしようとしてきた人も、最初は「需要と供給(この言い方、最悪ですが・・・)」の関係であったにせよ、慰安所に一度入ってしまえば、彼女たちの意志が尊重されたとは考えにくいと思っています。当時、まだ処女だった子がいたのはもちろん、初潮すらまだだった子までいて、1日に10人弱から多いときは何十人も相手をさせられるという異常な状況。何を求められても、抵抗できる状況ではないからです。
それから軍や国が組織的に行なったことではないという主張は、すでに慰安所設置に関する文書も見つかっているので通らない。
そもそも従軍慰安婦なんていなかったという主張もあるようですが、アジア各国にこれだけ生き証人がいるのに、否定できる意味が分かりません。
マパニケ村で私達はお昼ご飯を食べ、それからロラのお見舞いに行くグループとロラの証言を聞くグループ、二手に分かれました。港から村へのバスが遅れたため、本当は全員がするはずだった行程を参加者を分けて行なったわけです。滞在がこの日1日だけだったので仕方ないのですが、「くそー滞在時間がもっとあれば・・・」と、もどかしい気持ちになりました。
私はお見舞いに行くほうのグループでした。お昼を食べた場所まで出てこられなかった車椅子のロラの家にお邪魔しました。ロラたちも10人弱ぐらい、一緒に車椅子のロラの家へ移動し、そこでいろいろ話をしてくれました。
話をしてくれるのは1人のロラで、ほとんどのロラたちは黙って涙ぐんでいました。
日本に、国として認めて謝罪をしてほしいということ、また同じことが起こらないように教科書に従軍慰安婦について、きちんと載せて子ども達に教えてほしいということ、せめてそのどちらかが叶うのを見届けてから死にたいということ、村の子どもたちはロラたちの経験したことを何も知らないということ、戦争が終わっても長い間、自分の体験したことを口に出せなかったということ、 元従軍慰安婦のロラの中には、トラウマから男性と関係を持てず、子どもがいない人が多いということ、だから年をとって体が弱っても面倒を見てくれる人がいないのだということ。
「医療支援をお願いできませんか」
そう言われた時、ドキッとしました。言葉が重かった。
ピースボートのスタッフがその場にいなかったのではっきり答えられず、ロラたちの表情をくもらせてしまったのはつらかった。このまま帰るのはあんまりだと思って、「日本に帰ったら、この村で起こったことを、家族や友達や多くの人に伝えます」と言いました。でも自分でもその言葉がすごく薄っぺらいなぁと思いました。
それでも「サラーマット(ありがとう)」と言ってくれたことが複雑な気持ちでした。
もう一つのグループで、ロラの体験の聞き取りをした友達に話を聞いたところ、そちらの話も壮絶だったようです。抗日ゲリラがいるという疑いで、日本軍が村を襲撃した時、まだ少女だったロラの目の前で、お父さんが両手首と性器を切り取られ、それを口に詰められ、首を切られた話。
それから女性は家財道具を運べといわれてある家に集められ、そのまま監禁され、レイプを繰り返された話。
話したくない過去、話してくれたロラたちに感謝しています。その想いを大切にしたい。
忘れたくないし、伝えなければいけないと思う。「聞いてしまった」以上、無関心ではいられないと思います。
今、中国で盛り上がっている反日デモ。
今回の盛り上がりは何かおかしい、というか何かに煽られているようで、不安も感じます。
物を壊したり、日本人だからといって人を傷つけたりするのも間違っている。
「愛国無罪」というスローガン、国を愛する心からくる行動は、罪にならないというこの考えは、冷静な判断をできなくさせ、人と人がつながることを妨げてしまいます。正しくない、絶対に。
でも、日本は過去の戦争の清算を、誠実にしてきませんでした。教科書問題、靖国神社参拝、戦後補償を求める裁判の判決などを見ている限り、今もしようとしているとは思えません。
お金をどれだけ支援したかとか、そういう問題ではなく、一人ひとりの感情に考えようとしてこなかった。
怒りや悲しみをぶつけてくる人たちに対して、誠実に、丁寧に対応してこなかった。
「60年も前の話」だと、片付けられるのは悔しい。ロラたちは今も辛い過去を抱えて生きています。
賠償を求める裁判を起こしてもいるが、勝ったロラは今のところいません。
終戦から60年経った今も、消えない痛みや苦痛があることを、知っておくべきだし、向き合うべきです。
別に「つくる会」が主張するような「自虐的」なことではありません。
問われているのは「加害者である自分」に向き合う覚悟と、そこから何を学ぶかではないでしょうか。
blue

桐島は女子高の3年。"進路"という言葉が聞こえ始める時期。でも、やりたいことはそんなに簡単には見つからない。そんな中で、桐島は同級生の遠藤と言葉を交わすようになる。
そして遠藤に憧れ、次第に惹かれていく。
この映画で描かれているのは、確かに女の子同士の"恋愛のようなもの"なんだけれど、同性愛というよりは、弱いもの同士の寄っかかり合いのような私は気がします。自分が支えたい人、自分が支えてもらいたい人。
私にとっては、すごく共感できる描き方だった。
友達と、なんで彼氏を欲しがるんやろうという話になった時に、私は心も体も、ひっついてたら安心するからじゃない?と答えた。友達はそれって異性じゃないとあかんのかなーと言った。
そっか、本当はいいよね。と思った。
みんな、友達がいても寂しかったり、誰かに寄っかかりたい時があって、そんな時に、ただ誰かがそばにいてほしい。それだけの話。
原作者の魚喃キリコは私の一番好きな漫画家。原作に思い入れがあると、映画になって見てがっかりすることが多いけれど、映画blueは、最小限におさえた音楽も影をきれいに見せる映像も、キャストも、原作の空気感をうまく出してると思った。
夢
大学では教育心理学を勉強していて、教員免許をとるつもりです。
中学と高校の社会科。
きっかけさえ得られば、人は勝手に学ぼうとする。
好奇心は誰にでもある「知りたい」という本能だから。
「学ぶことは楽しい」今の学校教育はそれを忘れさせようとしてるみたいで、何かが根本的に間違ってる。
興味を持つきっかけがあれば、「学校で勉強なんかしたことないよ」って人が、がんばって本を読み始める。人に質問する。映画を見る。そうやって知ろうとする。そういう姿は、特にピースボートでたくさん見てきた。
今の「やらねばならない」教育、学校教育のシステムそのものは、「考えない人」をつくろうとしているようなものだと思う。それが意図的なものだとしたら考えた人は頭がいい。万事意図通りになってる。
私は、そうじゃないかたちで教育に関わりたい。
方法は別に、学校の先生になることだけではないと思っている。
一番の夢は学校をつくること。公立でも私立でもない、NGOとか、市民立の学校。もちろん人脈もお金も経験もいるから、いっぱい回り道をしてからの話だけれど。
好奇心を伸ばす、いろんなことを伝える教育は大切だと思う。
でも、家庭環境、経済的環境、それが「学べる」ところまで辿り着いていない子どものことを忘れないようにしたい。特に、私は忘れてはいけない。
私の生まれ育った部落の子どもたちは昔そうだったのだから。私のおじいちゃん、おばあちゃんはそうだったのだから。部落のことを、部落の人はムラという。
ムラの子に限らず、しんどい子はたくさんいる。何より、その子たちに寄り添おうとする人でいたい。したいことは山ほどあるけれどそこをまずスタートラインにしたい。
子どもが夢を見られる、自分の可能性を信じられるような教育がしたい。
こんなにできるよ、誰でもできるよって、提示してあげられる人でありたいし、自分自身もそのよきサンプルでありたい。
スワロウテイル
―むかしむかし、"円"が世界で一番強かった頃いつかのゴールドラッシュのようなその街を、移民たちは円都(イェンタウン)と呼んだでも日本人はこの名前を忌み嫌い、逆に移民たちを円盗(イェンタウン)と呼んで蔑んだここは円の都、イェンタウン。円で夢が叶う、夢の都・・・そしてこれは、円を掘りにイェンタウンにやって来た、イェンタウンたちの物語―
映像がほんときれいです。さすが岩井俊二。
俳優陣もそれぞれのキャラにそれぞれの色があって素晴らしいです。
なにより伊藤歩がいい。それから渡部篤郎がかっこよすぎる。
この世界の、きたなさや、儚さや、美しさ、希望や絶望、全部ひっくるめて描かれてるなぁと思いました。差別や、欲、愛情、生きる糧としての音楽、お金への執着。
お金を儲けて「幸せ」を得ようとする主人公たち。
アゲハは一番楽しかった頃を取り戻そうと、偽札をつくります。
「買い戻すの」
「何を」
「全部」
でも結局、お金を手にしても何も埋まらない、何も戻らなかった。
最後には死んだフェイホンを火葬する火で、札束も燃やす。
「いくら入ってたの!」
「いっぱい」
「いっぱいっていくら!」
「忘れた」
お金ってそんなものだと思う。
今、生きていくにはお金は必要だけど、人を幸せにできるものではない。生まれた時から、ある程度のお金がある人には、もう分かる。
お金で幸せになれるというのはお金のない時代の幻想だった。
映画の"円盗"たちは、お金がないが故にお金にすがりつく。
それが、切ない。
でも、それを「きたない」と罵る権利が誰にあるのだろう。
警察に、「このイエンタウンが!」と罵られたフェイホンの言う台詞が印象的。
「イエンタウンは、あんたたちの故郷の名前だろう」
岩井俊二作品には、見終わった後も残る台詞が多い。
ごちゃごちゃしすぎてるっていう批判もあるようですが、このごちゃごちゃ感がいいのに。それにごちゃごちゃしてるほうがリアルだと思う。
ラストが好きです。"イエンタウンバンドの"ではなくて"娼婦の"って言うところ。
岩井俊二ならではの独特の世界観。
懐かしい面々
相変わらずというか、集まったらうるさいうるさい。
特に何も変わってなかった。卒業して1年でそんなに変わってても困るけど。みんなあほなこともやってるけど、気のいい友達です。
私は同年代の中で、けっこう浮いてしまうことがあるんですが、高校の友達は当時から好きでした。
高校時代はバスケ部で、ひたすらクラブばっかりの3年間だったように思う。今思うと、3年間あったらもっといろんな経験ができたなぁとも思います。
バスケは好きだったけど、試合に勝つとか負けるとか、そういうことがわりとどうでもよく、こだわりがなかった。バスケにおいてはあまり向上心がなかったもので、そんなに成長したということもなく。クラブ内の人間関係がギスギスした時のトラブルシューターのような感じでした。楽しくなかったなぁ。笑。
クラブをやってたからこそ仲良くなれて、今でも大事やなと思う友達もできているし、人間関係(先輩後輩もけっこう仲良しでした)でいろいろ学べたのでよかったとは思ってるんですけど。
昨日クラスの子たちと会って、高校の時にもっとこの子たちといろんなことを 一緒にしたかったなと、少し思いました。
地球一周の船旅
広い世界を見たい。世界の、いろんな問題を身近に感じたい。特に自分が日本のマイノリティであることから差別の問題や先住民問題に触れたいと思いました。ピースボートには北回りと南回りというのがあります。私は南アフリカ のアパルトヘイトに興味があったのと、まぁタイミングもあり、南回りのクルーズに乗りました。これ↓が航路です。

ピースボートで得たもの、学んだこと。
積極的に人と関わって話をすること。
情報に振り回されずに、情報を見極めること。
想像力を持って考えること。自分と結びつけて考えること。
自分の考え、思いを表現すること。表現方法は無限だということ。
表現することは気持ちいいっていうこと。
大切だと思うことを無理なく、自分なりに続けていくこと。
全部、旅で人と出会って、人と話して、感じてきたことです。
私にとって、この旅は別れから始まりました。5ヶ月間、大阪のピースボートセンターでボランティアスタッフをしてきて、そこでの仲間がみんなこのクルーズに乗るわけではなかったので、これから地球一周だという感動と、毎日顔を合わせてきた友達と離れる寂しさと、なんだかよく分からない気持ちがいっぱい湧き出してきて、晴海出航は声を出して泣いていました。
船に乗って最初の頃、居場所が見つからずに、自分が大勢の中の一人でしかないように思えてめっちゃしんどかった。
「何かせな、このままじゃ乗ってよかったって言われへん」って焦ったけど、何をすれば自分が満足できるのか、全然分からなかった。悩んだし、迷った。いろんなことをやってみても、なかなかしっくりこなかった。
そんな中で、新聞局員たちが水案やスタッフや参加者に取材をしてるのを見て、ゆっくり話せるっていいなぁと、羨ましく思って新聞局に入りました。
記事を書いて言葉にすることで、いろんなことを頭の中で整理して考えることができました。なにより、新聞局が私にとって居場所になりました。そこに集まるみんなが、一緒にいればいるほど大好きになった。好きになったのは新聞局の仲間だけじゃなくて、本当にたくさん、好きな人ができました。一緒にいて楽しいっていうだけじゃなく、心から大切やって思う人たちに出会えた。
すごいなって、尊敬できる人が船にはたくさんいました。いっぱい刺激されました。あったかかったり、やさしかったり、賢かったり、すごい特技があったり、努力家だったり。自分にないものをいっぱい持ってる人たちがいます。
私はこの3ヶ月で、自分自身とも、出会いなおした気がします。
私は大阪の部落に育ちました。南アフリカに行ってタウンシップを見ても、ブラジルのファベーラで子どもたちと遊んでも、自分の親の生い立ちや、差別のこと、足元の部落問題のことを思いました。自分の立場っていうのは世界を見るフィルターになってるんだと思います。ほかにも、自分はこんなに寂しがりやったんかとか、ここまで子どもやったんかとか、こう在りたいと思う自分じゃない部分も改めて思い知らされて、凹むことも多かった。でも、逆にこんなこともできるんやって新しい可能性にも気付けました。目の前が開けた。すごいなって、思える人たちも話してみると、結構普通で、誰にでも何でもやれるんや、可能性ってこんなに広いものだったんだと、そう思えました。
結局世界を見てきて、見えたものは何のことはない、自分自身だった気がしています。それは大切なことだったと思っています。
私はこの旅でたくさんの「種」をもらったと思っています。
何かの「答え」ではなくて、可能性だったり、きっかけをもらいました。
水先案内人(ゲストスピーカー)として乗ってきた、田中優さんの言葉が心に残っています。
人には、地に足をつけて、地元で生きていく土の人と、世界を飛び回る風の人がいる。風の人と、土の人が手を取り合った時に、風土が生まれ、社会は変わるのだと思うと。
私にとって土はやっぱり、自分の生まれ育った地域だったり、部落問題なのだと思います。風はピースボートでやっているようなことだったり。
私は土の人でもありたいし、風の人でもありたい。
風と土をつなげる人でもありたい。
贅沢かもしれないけれど、船を下りたらそういう生き方を私なりに探っていきたい。そういう風に、生きていきたいと思っています。
夢みたいやった。でもそれで終わらせたら無意味になってしまう。
だからこれからは、現実と向き合っていかないと、と思っています。
ピースボートの旅のことは、寄港地や船内イベントなど、これからちょくちょく書いていきます。
ハッシュ!

一番好きな映画、と聞かれてすぐ思いつくのが「ハッシュ!」。ゲイである勝裕に、朝子が子どもをつくらないかと持ちかけます。直也と勝裕の関係が、自然で、2人ともめっちゃ可愛い。
ゲイのカップルが出てきますが、ゲイを描いたというよりは、家族の在り方を描いた映画だと思います。
3人の関係を見ていると、父(男)がいて母(女)がいて子どもがいるという今までの当たり前だった家族の型にこだわらなくてもいいんじゃないか思えた。家族の「型」に固執していたらゲイの人たちは自分の家族が持てないことになる。
「家族も友達を選ぶように自分で選びたい」という朝子の発想は、風変わりというかブッ飛んでいるというか、少なくとも今までになかった思う。朝子の考えに、私は共感できた。
勝裕のお姉さんは「家族は選ばれへんから愛しいんちゃうの」と言います。私は「ちゃう」と思う。一緒にいる時間が長かったり、"選べない"なりに互いに歩み寄ろうとするから愛しく思えるのであって「選べないから愛しい」のとは違う気がする。
ハッシュ!の3人の主人公たちは、日本の結婚の制度からは、かなりはみ出してる。でも、そんな家族の中で育った子どもが可哀想だとは私は思わないし、他の子どもと同じように、幸せになれる可能性が当たり前にあると思う。
確かに、風当たりはきついだろうと思います。特に日本の場合は。
でも、家族の愛情がベースとしてあれば、なんとか乗りこえて、むしろ人の痛みや悲しみを理解できる人になれるのでは、と思ったりします。
ちなみに、オランダにモデルとなった家族が実在します。






