奪われた時間
私が生まれたのは1960年代半ば。
世の中は高度経済成長で勢いづいている時代でした。
そんな中で、我が家はおカネに全く無縁の、しかし真面目で優しい父親以下、家族4人で貧乏(当時はその自覚はなかったけど)ながら幸せな毎日を過ごしていました。
今でもよく思い出すんです。
ほら、こんな古めかしい物を博物館で見かけちゃったりすると。
ちょうどこれと同じような重たいアイロンをうちでも使っていました。テレビは白黒、洗濯機は私の小さな頃には手回しの脱水装置が付いているようなものを使っていました。周りの友達の家と比べると、我が家の家電類は確実に1世代常に周回遅れでした。
靴も一足がダメになったら買ってもらう。
それでも当時の我が家の家計をやりくりしていた美人の母には苦労が絶えなかったのではないかと思います。
毎週、週末になると、小さな軽自動車に家族で乗り込み、スケッチブックを持って写生に行ったり、春なら摘み草、野草を集めた事も楽しい思い出です。
そういう楽しい時間、かけがえのない時間が、私が中学生になった頃からは、ぜーんぶ、JWに吸い込まれていきました。
出かけた思い出といえば、巡回大会、地域大会、週末は集会、週中も集会…
それでも家族で共に過ごした時間は楽しい思い出になっていますが、もっと違う過ごし方をしたかった、と、今になって思うんです。
人生の多くを費やした、JWの日々、それが嘘とまやかしに満ちた偽物だったと知る事は、私にとっても辛い事ですが、私の両親にとってはさらに辛い事でしょう。
幸いにして、両親はそろって目覚めました。
それは排斥者である私にとって、両親との関係を取り戻すことを意味します。
オフ会で多くの方の話を聞くと、私は本当に恵まれた立場にいるようです。
それでも、失われた時間はあまりにも大きい。
今、まだ元気でいてくれる父や母と、失われた時間をどれだけ取り戻すことが出来るでしょうか。
そんなことを、時々思いながら毎日を生きています。