五稜郭② | 「今できること」を8年も綴っちゃったw (ぬ∀す)b

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長らくのご愛顧をありがとうございました m(_ _)m

今から146年前の慶応4年、ここで戦いがあった。
徳川260年の幕藩体制を壊滅させた維新の戦いは、
戊辰戦争をもって終結したわけではなかった。
事実は、この蝦夷地に諸外国も認めた一つの政権が誕生し、
それを制圧して維新の大業が完成を見るには、
翌明治2年の夏まで待たなければならなかったのである。

当時その男達は夢を見た。
鳥羽・伏見の戦いで始まる戊辰の戦いで敗れた一握りの幕臣たちは見果てぬ夢を追った
我々にはまだ蝦夷がある。蝦夷には広大な新天地がある。
ある者は武士としての意地から、ある者は新政府に対する批判から。
その男達は様々な思いを秘めて、一隻の船に夢を託した。
その船の名を開陽丸といい、北斗の星にも似た彼らの夢の城を
五稜郭といった……。(番組ナレーションより)

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日米和親条約締結による箱館開港に伴い、
防衛力の強化と役所の移転問題を解決するため、
徳川13代将軍・家定の命により築造された。

設計を担当したのは洋式軍学者の武田斐三郎。
大砲による戦闘が一般化した後のヨーロッパにおける
稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置している。
総面積、74,990坪(約247,466m²)、施工は土工事を松川弁之助、
石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を中川源蔵が請け負った。
当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、
その脅威が薄れていくとともに、築造の目的は国家の威信になった。

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費用不足もあって、当初の計画は縮小された。
半月堡も大手口に一箇所しか造られなかった。
本来のヨーロッパの稜堡式の築城様式であれば、
半月堡は二重、三重に築かれて縦深防御を構成した
が、
たった一箇所の半月堡ではかなり見劣りがする。

また箱館開港時に政庁箱館奉行所がおかれたが、
大砲の標的となることを防ぐ目的で建物を低く設計したため、
政庁を置くスペースがなくなった。
純軍事施設としての建造が本来の稜堡式の築城様式であり、
これは目的に叶っていない。

↓本来のヨーロッパの稜堡式の築城の例。
 オランダのブルタング要塞。
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実際、箱館戦争の際、箱館奉行所の建物の天辺にある楼閣が、
官軍の軍艦の艦砲射撃の格好の標的となった。
それを知った旧幕府軍は慌てて楼閣部分を撤去したが、
射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、要塞内に次々と着弾。
もはやこの時点で、要塞としての機能は麻痺していた。
(以上、wikiより)

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↓現在は桜の名所としても有名です(北海道なので5月ですが…)
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