なんとかの命(みこと)の時代の力比べに遡るお相撲の歴史。

興行としてある程度確立されたのは江戸時代。

そこから数えても、69人しかいない横綱。

(最初は最高位が大関ではありましたが)


私の記憶がハッキリしているのは、(歳がバレそうですが…笑)

北の湖・輪島の通称、輪湖時代からです。

もちろんかなりの子供(多分)でしたが、当時田舎のチャンネル数が

N○K総合・N○K教育入れて4つ!という環境だったので、

自然に父親がすきだったお相撲を観るようになったと思います。

場所中は毎日テレビ観てましたねー。


記憶の中で強烈に印象に残っている横綱は、やっぱり北の湖と

千代の富士と貴乃花(貴乃花はちょっと’記憶’とは違いますが)。


その中で、今日は北の湖について。


憎らしいほど強いと言われた北の湖。

愛嬌のあるタイプではなかったから、余計そう言われたんだと思います。

今のように、気持ちを言葉にするお相撲さんは本当に少ない時代でした。

その中でも北の湖は昔ながらのお相撲さんタイプだった気がします。

『江川・ピーマン・北の湖』

と、子供の嫌いなもののトップ3にも挙げられてしまった北の湖…。

でも、優勝インタビューで時折見せる、照れたような笑顔は、

子供だった私の心を、思いっきりつかんだんだけどなぁー。


自分が勝って、土俵下に転がしてしまった相手に、手を差し伸べないことで

かなり批判されましたが、実は北の湖自身が、

「自分が、負けた相手に手を差し伸べられたら、情けなくてイヤだから…」

という理由でしなかったのは、有名な話(多分)。

気の使い方が、ちょっと他の人と違うだけ。

私は、北の湖のその心遣い、すごくいいなぁと思います。

ある人から

「怖い顔で誤解されがちだけど、本当に気持ちのやさしい人だよ。」

と聞いたことがあります。


「負けろー!」という声援が励みになったというめずらしい横綱(笑)。

調子が悪くなって、「がんばれー!」と声がかけられるようになったときは、

そういう横綱になってしまったか…と情けなくなったという話はさすが

大横綱だなぁと思います。

理事長として、適任だったのかどうかは、もうちょっと時間が経たないと

きちんとした判断はできませんが、横綱として、いい横綱だったと思います。


腰をちょいっとひねって、相手に取られた廻しを切る姿がすきでした(笑)。

あとは子供だったので、地味な寄り切りより、投げのほうが印象に残ってます。


引退したときは、ショックだったなぁ…。

北の湖のいない次の場所は、ちょっとつまんなく思ってしまいました。

一代年寄が与えられたときは、「当たり前!!!」と思った記憶が(笑)。


この前、ある俳優さんが、

「どすこいさん、北の湖すきなんですよね?

僕、子供のときに、北の湖のおなかに触らせてもらったことがあるんですよ。

ものすっごく硬くて、本当に硬くて、びっくりした記憶があります。」

って言ってました。

若い衆と言われる、幕下以下のお相撲さんのおなかも本当に硬いんで、

横綱だったら、もっとだろうなぁ。

…触りたかったよ~ん(笑)。


私が大好きな北太樹。

北の湖部屋です。

北太樹のお父さんが、北の湖の大ファンで、北太樹が北の湖部屋に入るとき、

若かったら自分が入りたかったくらいだと、言ったそうです。

男が惚れる男っていいなぁと思います。

元幕内力士の方が言ってましたが、お相撲さん本人が、

「ちゃんといっぱい稽古しなきゃ!」

と思うような指導方法を北の湖はするんだそうです。

「北太樹も真面目だし、だからここまできたんですよ。」

って言ってました。


何はともあれ、私はこの北の湖がいなければ、お相撲がすきには

なっていませんでした。

北の湖・輪島・若乃花(二代目)・三重ノ海の四横綱時代、よかったなぁ。

やっぱこれだけ横綱がいると燃えますよ。

この時期の行司さんと、塩のところに座ってた呼び出しさんは

今でも顔覚えてます(笑)。


お相撲が、本当にお相撲らしい時代だったような…。



ほんのりハンパですが、次回は千代の富士編で(笑)。