バレーボール教室について思う

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所謂決定論は存在を、機械的な個々の場合々々の集合と想定するから、そういう集合を成り立たせると想像される一枚の種紙の上で、必然性と偶然性とがもはや動きが取れないように対立せしめられる。その場合、偶然的なものが必然的になるというのは、専ら存在の認識の範囲に就いてだけ云える事で、存在自身が何も与り知らないことなのであるから。必然性と偶然性とは機械論的――形而上学的に――対立する。今日こういう機械論は、新物理学の根本的な成果――不確定性の原理――と相容れない。だから新物理学は、人々に、機械論的決定論を、従って又機械論的必然性と偶然性とを、擲つことを強制する。要するに夫は機械論の放擲を命じているのである。で吾々は機械論に代るものとして、之に対立する弁証法[#「弁証法」に傍点]を、機械論的決定論に代るものとして弁証法的決定論[#「弁証法的決定論」に傍点]を、機械論的必然性と偶然性との代りに、弁証法的な必然性と偶然性[#「弁証法的な必然性と偶然性」に傍点]とを、是非とも採用しなければならなくなる。新物理学の事実の圧力がそう命じるのである。
 弁証法的に理解された必然性と偶然性こそ、本当の必然性と偶然性である。そしてそういう必然性と偶然性だけが実質的に連関統一に齎されることが出来る。――では、必然性と偶然性との統一は何か。夫が弁証法的に理解された因果律[#「弁証法的に理解された因果律」に傍点]なのである。