「創世記」は「1」から始める。
なぜなら、「1/有」の前は「0/無」だから。
「0/無」は、描きようがない。
なぜなら、描くことのできる何ものも無いのだから。
だから、「1/有」から始めるのだ。
なぜなら、それが最初だから。最初の前には、何も無いのだ。
だから、「0/無」について、「それは何か?」と問うこと自体が無理なのだ。
“はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。”(「創世記」第1章)
この一節を悟性的な思考によって理解することはできない。
古代人の夢意識か、あるいは意識魂に律動する純粋思考によって理解するしかない。
古代人の夢意識には、悟性的思考はない。
一方、意識魂に律動する純粋思考は、悟性的思考を経て、それを通り抜けて、現れる。
この違いは心に留めておかなければならない。
「天」があって、「地」がある。
「天」は霊の世界であり、「地」は物質界である。
「地は形なく、むなしく」。何も形あるものが存在しない、いわばカオスだ。何ものも分節化/構造化されてはいない。
「神の霊が水のおもてをおおっていた」。
「神の霊」とは霊そのもの、ロゴスである。
「水」とはアニマである。母なるもの、聖処女マリアに相当するもの。今でも人は海辺にたたずむと、それに類似したものを感じる。アダージョ/アダジェットの楽章に、それを感じる。ロゴスに対応し得る永遠の感じ。限りない優しさと抱擁される感じ。柔らかなオレンジ色の光に包まれる受胎・・・
このアニマのことを、ゲーテは「永遠に女性的なもの/das ewig Weibliche」と呼んだ。もちろん、彼はそれを巡って概念的な説明などしていない。ゲーテの純粋思考がそれを直観/観察し、言語化したのだ。
それは全面的な共感と受容性、すべての生命あるものを慈しむ根源的な生命・・・
このようなアニマと同質のものを、人間は自らの魂に内に担っている。男女の性別の如何にかかわらず。
生命に根差した共感の熱が、だれの魂にも宿っている。これこそが人間存在の体的特性だ。また、芸術に代表される人間の創造行為の起点にあるものだ。
だから、反感に由来するあらゆる言説/言動は、芸術の生命を殺すのである。共感を以てしなければ、芸術の受容と享受は成り立たない。