霊の体験が契機となるか、それとも、魂の体験が契機となるか。
この違いは決定的である。
霊的衝動に衝き動かされて、人はカルマの開示としての出来事に関与する。
その時、その場所で、人は運命的に他者と出会い、その出来事は人類の記憶となる。
魂の体験を人は他者と共有しない。
その時、その場所に、どれほど多くの人間が居合わせていても、そこにいるそれぞれの人間のそれぞれの魂の体験が相互に交わることはない。誰もがまったく異なる別々の体験をしているのである。恐るべきディスコミュニケーションであり、結局のところ、それは疎外し疎外される状態がどこまでも続いてゆくことを意味する。
ミームに支配されたお互いが疎外し合うその状況を打開できるのは、自我の成す意志的思考のみだ。
意志的思考は他者を理解しつながろうとする霊的衝動と切り離すことができない。
さて、疎外するのか、それとも結びつくのか。
魂の体験を縁(よすが)として他者と結びつくことはできない。なぜなら魂の体験は疎外の原理に基づくからだ。エゴイズムなのだ。
霊の体験はエゴイズムから自由である。
霊的衝動は人類の記憶から来る。
霊の体験とは、霊的衝動に衝き動かされ、カルマの開示としての出来事に遭遇し、そこで運命的に他者と出会い、その場所その時の景色を目に焼きつける、そのような体験である。
カルマが人と人とを出合わせ、それによってその一人ひとりの自我が成長の機会を得る。
カルマ的な出会いは、一人ひとりの自我に深く刻印される。出来事が起こり、そこで新たに現出するものごとの変化と展開が人類の記憶となる。カルマとなり、人類の歴史の新しい展開の契機となる。
これこそ霊的衝動に他ならない。
この衝動が、地上の世界において、霊的潮流をひき起こし、その後の歴史を方向づける。
それは地上の人間のだれの地上的な意図とも、アーリマン/ルシファー由来のどんなミームとも無関係に律動し、多くの人間を巻き込みながら拡張/展開する。
霊的衝動のこのような拡張と展開を出来事/歴史と呼ぶことができる。
魂の体験は霊的衝動とは無関係である。そして人類の記憶とも無関係である。
魂の体験の出どころは、一人ひとりの魂に巣食ったミームであり、そのアルゴリズムはそこから出てくるイメージと感情までも決定する。アルゴリズムに従えば、いかなる例外もあり得ない。
死と反感が刻印され、ネガティブな情念の陰影に満ちたミームは、疎外と排除の論理で組み立てられている。
このネガティブサイクルのアルゴリズムに囚われると、人は孤立し、他者との結びつきを失う。
あなたの隣にいるだれかが見ているものが、あなたには見えなくなる。
彼が「これだよ」と言ったら、あなたにはそれが見えず「どれだよ?」と言い返す。
ミームに囚われている限り、そうしたことが延々と繰り返される。
さて、人間は完全な鳥瞰的視野をもち得ない。平たく言えば、「この世はわからないことだらけ」である。
視点を変えれば、違って見えるし、無数の視点があることはまず間違いない。そして誰もが途方に暮れる。
データなら集めようと思えばいくらでも手に入る。集まったデータを解析するための手立てもいくらでもある。ところが、膨大なデータをいくら解析しても、何も分からない。無数の解を前にして、誰もが途方に暮れる。
こうした状況に直面して、曲りなりにも生活との折り合いをつけるために働くのが、他ならぬミームである。
ミームの側から見れば、もう考えなくても、予め(あらかじめ)答えは出ているから、途方に暮れなくて済むのである。
しかも、邪魔なものは一切見えない。鳥瞰的視野など、もはや問題外となる。
同一のミームを奉じていることが、人々の共同性を担保する。
別のミームを奉じる者は、異物/他者の烙印を押され、差別され、共同体から排除される。相互理解はあり得ない。
しかし、この差別/排除という疎外行為のネガティヴなエネルギーは、翻って(ひるがえって)自分に襲いかかってくる。あらゆる形で。
疎外された他者は、それを恨みに思って、やがて復讐を企てる。
疎外した者は、自らの魂に充満するネガティヴなエネルギーによって、その魂と肉体を弱体化させる。自我が退却する。