それが光であることを
だれもが知りながら 知らないふりをする。
まるで 自分以外の 他のだれかにでも なりたいかのようだ。
あなたは あなた自身から 逃げる。
逃げられないことは 百も承知のはずなのに。
それが光である それから 逃げようとする。
それは光であるのに。
光から逃げれば 光を失い 闇へ至る。
あなたは あなたが感じているあなた以上のものに なりたいのかもしれない。
その情念は おそらく・・・
おそらく その情念は 私たちのだれもが 魂の奥深くに 隠しもっているのだ。
その情念の炎は 私たちが受肉し この地上に誕生する そのときにはすでに 点されている。
その炎は いわば初めから その光のとなりで 揺らめいて
光を 屈折させ 湾曲させ あやしい陰影と影を つくり出す。
さて、もう一度、デカルトのあの根源的な命題について考えてみよう。
cogito ergo sum 我思う、故に我在り
これは純粋思考であり、根源的な直観の表明である。
イントゥイションの原形はこの命題にあると言ってもよい。
この直観こそ、いわゆる真理感覚(cf. ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』)そのものであり、そのような感性をもたない古今の多くの哲学者たちが、この命題に対して皮相的な見解しかもち得ないことを、私は確認した。
それらの皮相な見解は、彼らが彼ら自身(の自我)から逃げたいという極めて強い衝動/情念をもつが故に表明されていることは間違いない。
驚くべき自己疎外が、そこでは生まれているのだ。
彼らは自分を受け入れることができない。あまりにも強い反感ゆえに。
その強い反感ゆえに、彼らは他者をも受け入れられない。驚くべき分断と孤立である。
自我の光は、あなたがこの宇宙に誕生したその時から輝いているのだ。
デカルトの命題の意味するところは、このことに他ならない。
しかし多くの人は、この認識のナイーブさにいわば恥ずかしさのような感情を覚えて、素直に認めるのを躊躇する。
この地上の生活を営む上で、そのようなうぶな感じは何となく不都合に思えるようになり、大概の人はそれを捨ててゆく。俗っぽく大人になってゆくわけだ。世間の目が気になって仕方がないのだ。
そのようにして人は、一番大切なものを失う。自分を失うのだ。実際のところ、茫然自失と言ってもよい状況なのだが、そのような魂の隙間に、ミームが入り込んでくる。
個人の魂は年齢とともに、悟性魂/心情魂へと成長してゆく。
そして、その魂の空間に、アーリマン/ルシファー由来のミームが巣食い、もはや本来の自我は光を失って、ペルソナの自我が情念の炎を燃え上がらせるのだ。情念の炎は、いずれにしても反感を燃料としている。だから、ミーム空間は疎外空間なのだ。個と個とが排除し合い、敵対し合う。その排除の論理、敵対の論理に都合のいいアルゴリズムを、アーリマンが提供する。