死海断章 2 ~ 人類の星の時間/転機 ~ | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

ブログの説明を入力します。

そして、人類の星の時間に、人類の記憶が、新しく甦る(よみがえる)。

この時間は魂の空間、聖別された時間の蒼穹(そうきゅう)だ。

この蒼穹に光り輝くものが訪れ、魂の全空間を明るく照らし出す。

それは意志的な思考だ。

 

意志的な思考は、悟性魂/心情魂に至ると、インスピラツィオーンとして働き、アーリマン/ルシファー由来のミームがもたらす種々のイメージの素性を暴く。魂の空間に渦まくイメージの攻撃性は和らぎ、情念の嵐は静まる。

ミームの相対性と恣意性が徐々に明らかになってゆく。

 

ミームはルシファー由来の情念に奉仕する。

影の思考であるミーム、その文脈イメージとアルゴリズムは、情念を動因とする。

情念の本質は、エゴイズムである。

文脈イメージとアルゴリズムの骨格と屋台骨を、アーリマンが提供する。唯物論と無機的な死の論理性である。

 

・・・例えば、ある昼下がり、目覚めると、眼前に湖とその向こう岸が陽光に照らされ、陰影を帯びて輝いている。

私はその景色の素晴らしさに圧倒されて、言葉を失い、この世ならぬ感情に包まれて、時が過ぎるのを忘れる。

ありきたりの表現は、もはや意味をもたない。なぜなら、そのような言い表し方は、目の前の光景からその本質的な部分を奪うことが明らかだから。

ミームを超えた何ものかを、いま私は目の当たりにしているのだ。

ミームを超えた何ものかを幸運にも発見したならば、あなたはそれを表す言葉、記述する語彙を、おそらくまったく新しい表記システムのようなものを、自分で作り出さなければならない。

 

すでにありきたりになってしまった事柄の諸々に対してならば、私たちはそれらに対応した語彙をもっている。それらの語彙は、私たちが通常用いる日常言語の中に、いわば体系的に出来上がっているわけだ。

それに対して、人類の記憶へと直結する本質的な事柄、霊的/精神的な事柄については、私たちはそのような語彙をもたない。皮肉なことに、自然科学が驚異的な発達を遂げたと思われている現代、唯物論的な今のこの時代においては、そのための霊的な語彙を生み出すことすら忘れられたかのようである。

私たちは、キャラメルの砂漠のような安直な荒野を、まるでゾンビのようないでたちで、機械のように歩き回っている。アーリマン/ルシファー由来のミームが生み出す光景だ。

 

ミーム語彙が、私たちの眼前の景色を切り取り、生み出し、演出する。ミームの景色だ。私たちは、それに馴れ親しんでいて、通常、他のものが必要だとは感じない。

そのようにうっかりしていると、ある日、何ごとかが起こる。ミーム語彙ではつかみきれない、そして表すことができないことが。

それは一種の警告であり、呼び声であり、危機でもある。

ミーム的な視点からすれば、それはある種壊滅的な何ごとかではあるに違いないが、間違いなく祝福に満ちた結果に至る重要な出来事の始まりであることは間違いない。

私たちはそのような出来事に対しての必要十分な語彙を持ち合わせておらず、そのためその出来事が何を意味するのか、どのような形で成就し、そして何に至るのか、はじめのうちはわからない。後で振り返って、その出来事によって、何か大切なことが成し遂げられ、それまでにはなかった新しい何ものかが、端的な言い方をすれば、新しい価値と生き方が生み出されたと認識するのである。

出来事の最中、その渦中においては、人はまるで自分の意志ではないかのようにふるまい、行動する。通常のその人にはない能力を発揮する。周りの人間は、いわばそれに感化され、エゴイズムを超えたところでつながる。

 

これは要するに、聖霊降臨の出来事なのだ。

ここに意識魂と純粋思考とが、伴走する必要がある。この出来事をカオスのような豊穣の状態のままにしないために。

 

さて、このことは、人類にとって、まさしくこれからの課題である。

この試練を、人類はいまだ克服していない。そして、当然のことなのかもしれないが、克服していないという事実を、人間はまだ受けとめ切れてはおらず、あまりにもナイーブで、この課題に十分な意識性をもって向き合うことができていない。

 

まだ言葉も語彙もない荒野(あれの)に、私たちはいずれにしても、向かわなければならないのだ。

荒野には、彼らが待っている。アーリマンとルシファーが。まさしく彼らは、試す者だ。