聖別(せいべつ)の時 | 大分アントロポゾフィー研究会

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さて、悟性魂/心情魂に渦まく情念、そこから出てくる感情めいたものをシャットダウンして、事物/人物に対峙し、意志的思考が生み出す聖性を、そこに結びつけることにより、霊/精神が顕現する。

 

あなたが今見ている「それ/Es」が、他ならぬ霊/精神だということに、あなたはやがて気づくだろう。

運に恵まれれば、明日にでも、いやこの後すぐかもしれない。

そうでない場合は、・・・。

 

気づいても、気づいたことに気づかない場合だってあるだろう。

気づいても、気づいたことをすぐに忘れることもあるにちがいない。

あるいはまた、気づいても、気づかないふりをしたり、「知らない」と高をくくったりする、いやしらばっくれたりすることだって、きっとある。

 

でも、そういったことはあまり重要ではない。

 

とりあえず、名前をつけてみよう。

自らの意志的な努力によって、事物に聖性を与えることを、聖体拝領ととりあえずは呼んでおこう。

この聖体拝領という出来事が起こり得る、ということが最大のポイントなのである。

なぜなら、人類進化の大目標が、まさにここにあるからである。

このベクトルが見失われていることから、現代の諸々の不都合が起こってくる。そして、私たちの社会はカオスと化し、さらには森羅万象への悪影響もはかりしれない。

 

人間の自我から光が発せられる。

光はエーテル体の中に入っていく。

エーテル体の中で光は、生命とともに形成する力/創造する力として律動する。

生命は、霊的宇宙に遍満(へんまん)するプラーナであり、人間の体においてそれはクンダリニーである。

エーテル体の中で律動する形成力/創造力とは、もともとは自我から発した光であり、まさしく自我/意志である。

エーテル体の中でそれは、いわば原思考(げんしこう)となる。生命と一体となったまさしくプリミティヴな様態の思考である。生きた思考である。影のような思考ではない。自律性をもっているのである。

ただし、この段階では、人間はこの思考を意識していない。この思考が、まだアストラル体に到達していないからである。

 

ともあれ、アストラル体まで至らずとも、この思考はエーテル体において成され、人間が通常の生活を営む上では、さして支障はない。むしろアストラル体がある意味邪魔をしない分、ことはスムーズに進むかもしれない。特にもっぱら体を使う仕事の場面においては。

 

しかし、ことはそう簡単ではない。

私たち人間は、動物ではない。

そして、これは単に修辞上の事柄ではないのだが、デカルトが「我思う、故に我あり」という霊的出来事を見出して、その証(あかし)をしたのである。

動物たちは、そのように考えることはない。もちろん、植物や鉱物も。

つまり、人間には自我がある。動物や植物、鉱物には、そのような個的な自我というものはない。

 

その自我から、光が発せられる。霊的なる意志の光である。

その光は、人間の自我と森羅万象との霊性を照らし出し、その霊性を明らかにするために思考として律動する。

エーテル体は、プラーナ/クンダリニーとしての特性上、思考が律動するのに適した場所なのである。

 

とはいえ、エーテル体止まりでは、意識化されず、霊的思考の光を観察対象/思考対象に照射することができない。

だから、それをアストラル体にもたらす必要がある。

 

ところが、ことはそう簡単にはいかない。

なぜなら、アストラル体にはすでに、アーリマン/ルシファー由来のミームが浸潤しているからである。

ミームが支配力を発揮している限り、霊的思考はアストラル体に到達することはできない。

 

クンダリニーは、ワイルドな生命力であり、無類の突破力をもつ。

霊的思考とミームの間のせめぎ合いは、きわめて熾烈(しれつ)なものになる。

そうした中、クンダリニーの衝迫力は、人間の体(たい)と魂に破壊的に作用する。

 

さて、通常、私たちが感情と呼び、まさにそれこそ感情だと思い込んでいるものは、悟性魂/心情魂に由来する。

それは、ミーム/文脈イメージのアルゴリズムから出てくる。

自我に発し、エーテル体を貫いて律動する意志的/霊的思考は、まだアストラル体に到達しておらず、人はアストラル体に蔓延る(はびこる)アーリマン/ルシファー由来のミームのアルゴリズムを自らの思考だと勘違いしている。

そして、そのミームから自動的に感情めいたものが出てくるのである。

ミームが私たちの思考ではないから、そのミーム由来の感情も私たちの感情ではない。

しかし私たちは、ミームを私たち自身の思考だと思い込んでいるから、ミーム由来の感情も私たちの感情だと錯覚してしまう。

そのようにして、私たちはミームと一体化し、いわばミームの奴隷になるのである。

 

何らかのミームと人間に特徴的な対象意識が結びつくことで、事態は先鋭化する。特定のミームの絶対化/絶対視という恐るべきプロセスが進行するのである。

人がある特定のミームを絶対視すれば、その特定のミーム以外のものはまさに見えなくなる。

内なるもの外なるもののすべてが、そのミーム(が生み出したもの)に見えるようになる。アルゴリズムにアルゴリズムを接ぎ木すれば、ミームの拡大はほぼ永遠に可能である。そのようにして、すべてがミームに見えるようになり、そしてそれ以外のものは存在し得ない。ミームの増殖だ。

法則や秩序は不要である。アルゴリズムですべて事足りる。

一度うそをつくと、うそにうそを重ねなければならない、という状況によく似ている。

 

このようなミーム由来の感情めいたもののトリックを、黒魔術は利用する。

黒魔術師は、そのような感情めいたものが、しかもこの場合はワイルドで生々しい迫力をもった情念のようなものが、出てくるように誘導するのである。

ミームのアルゴリズムに、それこそ罠(わな)となるアルゴリズムを接ぎ木することによって。そんなに難しいことではない。

実際、どんなメディアもやってることだ。ただし、その全体像を誰も把握していない。この黒魔術が私たちをどこに連れてゆくのか、まだ誰も知らない。

 

ミームのアルゴリズムは、いわば情念のアルゴリズムと呼ぶことができる。

このアルゴリズムが生み出すものは、センチメンタリズムとセンセーショナリズムの特徴をもつ。

必ずどこかありきたりでかなり陳腐(ちんぷ)であり、受け狙いでその場しのぎだということが透けて見える。「ゲゲゲのドッキリカメラ!」や「アレコレ衝撃映像百連発!」、「なにこれ珍百景!いやいや珍万景!!」etc. みたいな。いったいなんなんだ。さらに、「言いたい放題、いいんかい(委員会)、ばばば女子会!」「もうゆるさない!」「げーむおおばあ、ゲロゲロン!」etc. みたいなね。まあ、そのてのなんだろなあは、もう無限なんだが、どれも既視感があって、似たり寄ったりな感はぬぐえない。

これこそミームの特徴であり、アルゴリズムの特徴だ。

 

つまり、ミームから出てくるものには、聖性が伴わないということなのである。

それは、ミームがロゴス由来ではなく、アーリマン/ルシファーから来るからである。

ロゴスとは生きた思考であり、これは純粋思考である。

 

さて、「ヨハネによる福音書」より。

 

″初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。″(「ヨハネによる福音書」第1章)

 

ここで「言(ことば)」と言われているのがロゴスである。

 

次に、「創世記」より。

 

″主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。″(「創世記」第3章)

 

ここで神は人をエデンの園/霊界から追い出して、「土」を耕させた。「土」とは人間の肉体そしてこの地上の世界である。その肉体を「耕す」とは、自動機械のように肉体が動くとか、動物のように本能に従って行動するというのではなく、ここでは人間が知るようになった善悪に従って、行動することができるように練習する/修行するということを意味する。

ただし、この善悪を知るようになった人間の魂は、悟性魂である。彼は本来、いわば盲目的に神に従うほかないはずなのである。

ところが、人間は唯々諾々(いいだくだく)と神に従うことはしない。人間はただ易々(やすやす)と神の言いなりになったりはしない。神に背き、ルシファーの誘惑に乗る、まさにカインの末裔(まつえい)となったのである。

そもそも人間は、ルシファーに誘惑されて、善悪を知る木から取って食べ、その悟性魂の内に、ルシファー由来のミームの浸潤を許したことで、人は、情念の嵐に翻弄される存在となった。彼の悟性魂は単なる悟性魂ではなく、悟性魂/心情魂となったのである。

 

しかし、「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」(「創世記」)

それでも、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(「ヨハネによる福音書」)

 

「命」という言葉がキーワードになる。

「人の光」とは、自我であり、意志的な思考であり、純粋思考である。それは、エーテル体を貫いて律動している。

「やみ」とは死であり、その死の領域をアーリマンが支配している。

命は死に打ち勝つ。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」のである。

当然である。「命は人の光」つまり、生命と自我/意志、そして純粋思考と同定できる。命があれば、死はない。

なおかつ、その逆は言えない。なぜなら、すでに「光はやみの中に輝いている」のだから。光自らが光自らを「かくあり」と認めるかどうかが問題なのだから。「我思う、故に我あり」という直観/Intuition を成すことだけが問われているのである。

「死があれば、命はない」ではなく、「死があっても、命はある」。なぜなら、命は遍在するから。プラーナとして、そして人間の体においてはクンダリニーとして。

そしてその命を、人は自我とみなすのである。

 

そのように、「我思う、故に我あり」という直観/Intuition を成し、そこから生命が湧いてくるのを感じることができなければ、魂はいつでもアーリマン領界へと下ってゆく。ニヒリズムと絶望は、まさしく死に至る病である。

 

「創世記」によれば、神は人を霊界から追い出し、しかも「命の木」から取って食べることができないように、ケルビムにそれを守らせた。「命の木」が意味するのは、自我であり、霊的生命である。

つまり、人間は故郷を失った。霊界から切り離された。疎外されたわけである。しかしこれは、人間が個的存在となったことを同時に意味している。

だが、人は「命の木」から取って食べることはできない。霊的本質である自らの自我をもてない状態に置かれている。

その代りに、人は自らの魂の内に、ルシファー由来のミームを浸潤させている。

 

さて、事ここに至って、最大の謎が浮上することになる。

「個と全体」の問題である。これはおそらく永久に解けることのない謎である。しかし、謎なのだから、解けなくてもいいと言えば言える。

とりあえず、私自身の純粋思考のために、自分なりの整理をしておこう。

 

1 個は一つの全体であり、全体と同質の内容をもたなければ、個たり得ない。

 

2 全体を、アーリマン的無機的自然科学的に想像することは、事実に反する。

2-1 全体は、有機的組織的に思考する必要がある。

2-2 だから、一つの全体である個も、同様に有機的組織的にとらえる必要がある。

 

3 全体は個ではないが、個は一つの全体である。

 

個的存在である人間は、霊界から疎外され個として立ったその時点で、一つの全体としての個以外の何ものでもない。

そして、個であることの究極的な意味は、自我存在として生きることに他ならず、神によって封じられた「命」を人間が望むことは、もはや必然なのである。

なぜなら、全体とは命、すなわち自我をもつものの謂い(いい)に他ならないからである。

 

「ヨハネによる福音書」の次の部分を読めば、ことの成り行きがより明らかになるだろう。

 

“すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人びとには、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った。「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。”(「ヨハネによる福音書」第1章)

 

「神を見た者はまだひとりもいない。」~  個である人間が全体に対峙し、それを一つの観察対象にしたり、ましてやそれと語り合う/対話するようなことはできない。

 

「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」~ ロゴスとしてのキリストは、自我をもつ一つの個、つまり人間となり、私たち人間と共に生活するようになった。

 

「ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」~ 「ひとり子なる神」つまりキリストだけが、私たち人間とともに生き、生活して、この地上の世界にありながら、霊を顕現させた/明らかにした。

 

「世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。」~ 世界はロゴスによって造られたが、人間はそのような成り立ちを知らない状態だった。ロゴスであるキリストは、自らが生み出した地上の世界に、人となって現れたが、人々は彼ら自身の魂に巣食ったミームゆえに、ことの成り行きを理解することができなかった。

 

「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人びとには、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。」~ 地上に現れたキリスト・イエス、自我存在として一つの個となったキリスト・イエスに、自らの自我を以て、一人の自我存在として、一個人として対峙し、遭遇し、向き合った人々は、キリスト・イエスとの生活、対話、関係性の構築を通して、自らの魂を成熟させ、キリスト・イエスの霊性/聖性を体験することになった。彼らは自身の悟性魂/心情魂に浸潤したミームから脱け出て、その魂を意識魂に変容させ、そこに聖なる自我の光が点された(ともされた)のである。

 

「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。」~ 自我の光は命である。霊的生命である。プラーナであり、クンダリニーである。最高の霊的関係性としての「わたし/Ich」-「あなた/Du」の関係性が、少なくともキリスト・イエスと弟子たちとの間には成立していた。驚くべきことに、キリストが「あなた/Du」そして弟子たちの自我は「わたし/Ich」。また、キリストの自我が「わたし/Ich」で、弟子たちの一人ひとりはキリストから「あなた/Du」と呼ばれる。それぞれの自我が共振/共鳴することにより、「めぐみとまこと」は増幅され、常に新しく生み出される。純粋思考(まこと)と霊的生命(めぐみ)が。

 

そのようにして、弟子たちの魂は、ゴルゴタの出来事を理解し、さらには聖霊降臨の出来事に向けて準備された。

ゴルゴタの出来事は、キリスト・イエスの自我が準備し、弟子たちとこの地上を生きる中で成し遂げられた/生起した。

キリストと人間たちとの「わたし/Ich」-「あなた/Du」という特別な関係性の中で初めて起こり得た、一回限りの出来事である。そこにはキリスト・イエスの自我と弟子たちの自我が、意志的に関係しており、彼らの成す純粋思考の交感が、記憶として遺る。

 

つまり、「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。」~ 「光」は何のために世に来たのか、と問うべきである。すべての人を照らすことのできる光は、一つしかない。すべての人間がそれぞれの魂の核にもつ自我の光以外にそれはない。自我から発せられる光、それは純粋思考である。ロゴスと呼んでもいい。

キリストの目的は、人間の魂を意識魂へと成熟させ、そこに聖なる自我の灯を点すことに他ならない。そのように自我をもった人間は、まさしく「神の子」となる。

この目的を達成するためには、キリスト自身が人間となって、この地上を人間とともに生活する必要があった。そうして初めて、秘儀/秘蹟としての出来事が成立する。

純粋思考/ロゴスは、出来事を経て、記憶となる。

 

この聖なる記憶を想起することが、秘儀の最大のテーマである。