人は自らの内にあるものを外に見出す。
外側だと思っていたが、それは本当は自分の内側だと気づく。
内にあるものとは、ミームか、あるいは記憶。
ミームはアストラル体に、記憶はエーテル体にある。
ミームはアストラル体にあるので、そのまま意識される。
そして、それが外に向けて投射され、人はミームの景色を見る。
つまり、人が通常見ている景色は、その人のアストラル体に巣食ったミームに由来するのだ。
エーテル体にある記憶が意識化される/想起されるためには、それがエーテル体からアストラル体へと運ばれる必要がある。クンダリニーの衝迫(しょうはく)が、それを成す。
クンダリニーによって突き上げられ、いわば生命的に増幅された記憶が、アストラル体に到達することにより、その記憶は浮かび上がり、意識化され、想起される。
場合によって、その想起は、聖霊降臨に等しいものになる。過剰なもの、巨大なものが、現れ、出現し、その人を圧倒する。
想起された何ものかは、生命に満ち、エーテルのアウラを放つ。
霊的生命/クンダリニーを喪失すると、思考/記憶は硬化し、干からび、無機的なものと化する。文脈イメージのアルゴリズムと変わらぬものとなり、いわばミーム化する。
本来の思考は意志的な思考であり、この地上の生において、人は自らの体(たい)を駆使して、その思考を具現しようとする。
思考は、もともとは人間の自我に端を発し、まずエーテル体の中で生きられ、アストラル体に至って意識化される。
思考はアストラル体において意識化される際に、仮象化され、その分、エーテル体において有していた本来の生命を弱めることになる。
エーテル体において思考は意識化されないが、その分、強い。しかし、意識されないので、いわば勝手に動き回るのである。そこで人は何が起こっているのか知るために、思考をアストラル体にもってきて、仮象と成し、いわばプリミティヴな思考、本来の生きた思考から距離を置く。
アストラル体において、人は自らの思考から離れ、いわば自己疎外の状態に入る。
自らを実現しようとする意志的な思考と、その思考から距離を置き、いわばこれから起ころうとしている出来事を未然に回避しようとする人間の弱い魂とが、分裂状態に陥る。
弱い魂は、自分に被害が及ぶことを恐れて、出来事を遠巻きに眺めようとする。人任せにして、面倒だと思われることに手を出さない。要するに、関わらない、関係をもたない、つながりをもたない、ということだ。
その結果、きわめて当然のことだが、その人には何の記憶も残らないのである。何かを忘れるということでさえない。そもそも、その人は何も考えず、何もしなかったのだから。
実のところ、思考と記憶こそが、霊的生命の源なのである。
だから、意志的に思考し、他者と生きた関係をもち、出来事を成し、そしてその経験を記憶として自らの体と魂とに刻まなければ、人は干からびて、死の領界に近づくことになる。
ミームに依存して、無機的機械的アルゴリズムに、自らの生活をゆだねることは、安全確実、便利で楽そうに見えても、それは自らの体と魂を弱体化させるだけだ。
また、そのような無機的機械的ゲームに倦み飽きて、倦怠感にとらえられ、実際消耗したときに、何かが目に入って、ちょっと目新しくて、何となく嫌な感じの不全感を吹き飛ばしてくれるんじゃないかという気がしてくる。新手(あらて)のセンチメンタリズムとセンセーショナリズムに目移りする。・・・ちょっと見てみて、ちょっと考えてみればわかるはずなのだが、実のところ、受け狙い、人気取りの安手の新奇さ、奇抜さでしかないものばかり。
お気楽さが、ポップな感じが人を引きつける。わかりやすい感じがする。
そう、ミームがミームを引きつける。ミームが呼んでいるんだ。
アルゴリズムに乗っかって、オートマティックに行っちゃうってわけ。速さが勝負。
このドライブを邪魔されるのは、頭にくる。いらいらする。想定外のことが起こるなんて、とんでもない。職場でも、食堂でも、ショッピングでも、ネットでも、・・・家庭でも、学校でも、施設や病院でも、・・・ニュースも、ワイドショーも、バラエティも、エンタメも、・・・あなたの生活の何もかもだ。
・・・あなたってだれなの?
実のところ、他者は常に想定外だ。あなたの言いなりにはなってくれない。
いずれにしても、他者の介在なしには、あなたの生活は成り立たないし、出来事も起こらない。
いずれにしても、他者の厳然たる存在が、私たちの人生の謎を解明する大きな鍵であることは間違いない。
いずれにしても、他者の謎は、いかなるミームによっても解き明かされることはない。いまだかつて、何らかの哲学の理論や思想的営み等々が、他者の謎を解明するのに役立ったという話を聞いたことがない。
霊/思考体に他ならない他者は、自我に起源をもつ意志的な思考-これは純粋思考である-の前でのみ、その真の姿を現わす。思考には思考で向き合わなければならない。ミームのアルゴリズムには、まったくかみ合わないのだ。
意志的思考/純粋思考は自我に発し、クンダリニーの生命エネルギーによって賦活され、エーテル体からアストラル体に到達して意識化される。このとき魂は、悟性魂/心情魂から意識魂に変容する。
純粋思考とともに、意志が魂の中に入ってくる。このとき意志は外から来たのではない。
「我思う、故に我あり」とデカルトが語ったように、それは私の中心から、私そのものから、自我から・・・意識であり、同時に生命でもある魂/アニマが生まれる。このとき、魂/アニマは、霊/精神/ロゴスである「わたし/Ich」と一体となっている。
だから、意識魂において、思考存在としての「わたし/Ich」が、他者であり同様に思考存在である「あなた/Du」に出会うということなのだ。ミームに支配された悟性魂/心情魂は、純粋思考によってミームの縛りから解放され、意識魂へと変容を遂げる。
ミームは、まさしく影である。生命をもたない骸骨に似ている。
影に命を与えることはできない。また、与える必要もない。
あなたは、その影の正体を見抜き、自分で思考を始めることにより、その死の国からよみがえることができるのだ。
さて、・・・意識魂という場所こそが、他ならぬ出来事というものが生起する舞台なのである。
そして、出来事においてこそ、純粋思考が生きるのである。
いろいろな言い方ができるが、他ならぬ純粋思考が、出来事を生み出す。そして、出来事が人間の記憶となり、新たな思考を生み出す。このサイクルを歴史と呼ぶことができる。
そしてこのサイクルを俯瞰的(ふかんてき)に眺めたとき、思考と出来事と記憶とは、ひとつながりの事柄であり、その意味において、霊と肉とが調和的につながり合っていることが判明するのである。
この関連、つながり合いのことをカルマと呼ぶ。
出来事が生起すると、ミームが消える。
ミームが消えると、そこにまったく新しい景色が現れている。
見慣れた風景が、様相を一変させて、エーテルのアウラに輝く。
一回限りの生命の出来事が起こる。
あなたはそのカルマ的豊穣、永遠の命の泉に気づくだろう。
そう、きっとあなたは思い出すのだ。ミームは消えたのだから。