自己否定についての覚書 2025.3.29 | 大分アントロポゾフィー研究会

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自己否定には、通常意識にのぼって来ない、いわば隠された構造がある。

この構造を意識化しない限り、自己否定は何度もやって来る。

無自覚な人は、自らを疎外するのみならず、他者をも疎外し搾取するようになる。

 

1 「我思う、故に我在り」(デカルト)。

1-1 この命題こそ、根本的な自己認識を成す純粋思考を表現している。この純粋思考を誰もが、その魂のいずれかのレベルにおいて成しているが、・・・多くの場合、魂はその純粋思考の強烈さを目の当たりにして、あるいは目の当たりにすることを恐れて、その思考を貫徹(かんてつ)することを躊躇(ちゅうちょ)する。

1-1-1 「我思う」と人は直観する。ところが、「故に我在り」と考えることを怯む(ひるむ)。

1-2 「我思う」という純粋思考の強烈さは、それがいわば死と隣り合わせのところから来る。思わなければ、私は自らの存在の根拠を失い、何もなくなる。私はいなくなる。・・・「我思う」という直観の光が来る。思っているのは何者なのか? それは私に他ならない。・・・だから、思考の営みが私の魂において成される限り、私は常に死に打ち克つ。「故に我在り」ということになる。ここまで自らの純粋思考を貫く魂の強さが必要である。

1-2-1 純粋思考にあっては、ミームは不要である。何らかのミーム、何らかの文脈イメージ/アルゴリズムに囚われると、その人の思考は乱れて、軟弱なものになる。本来の純粋思考の苛烈さが失われる。他者に依存してはならない。

 

2 「我在り」と言ったとき、それは「私がこの地上に生きている」というのとは違っている。

2-1 この地上の世界の存在いかんに関わらず、「わたしはある」ということである。

2-2 つまり、「私が思う」ということは、「私は霊的に存在している」を意味する、ということなのである。

2-2-1 さらに言えば、存在/実在とは、霊的にのみ言及し得る事柄なのである。

 

3 「我思う」が既に、「私は霊である」という言及なのである。

3-1 「我思う」という気づきと直観が、魂の内に現れるとき、それは魂を震撼(しんかん)させる出来事でもある。なぜなら、それは霊的なる出来事であり、それはもはや霊の顕現としか言いようがないから。

3-2 霊は、生と死の深淵を乗り越えて、魂の内に顕現した。人間の魂は、その出現に震撼し、「我思う」と純粋思考の言葉でその出来事を表した。

3-3 そして確認する。霊は地上の要件ではなく、死を超えている、と。

 

4 しかし、人間はこの地上の世界を生きる。だから、魂の内で葛藤が起きることになるのは、やむを得ないことである。魂は、霊と肉との間で引き裂かれるような状態に置かれる。

4-1 このような状況にある人間の魂の中に、ミームが入り込んでくる。ミームは、霊と肉の間で宙ぶらりんになっている人間にささやく。「わたしの言うとおりにすれば、うまくいきますよ」と。このささやきの裏には、「そのかわり、あなたの魂をいただきますよ」という悪魔の契約が隠されている。

4-2 ミームが人間を霊の方へと引き上げることはない。ミームはすべて肉へと向かう。

4-3 ミームは、アーリマンとルシファーとの共同によって作り上げられる。それは、神々にも、人間にも由来しない。

 

5 人間にも神々にも由来しない、アーリマン/ルシファー由来のミームに侵蝕された魂において、人間は深刻な自己分裂状態に陥る。このような分裂状態のことを、疎外と呼ぶことができる。

5-1 このような状態にある人間が、「我思う」と言ったとき、「その我とは誰のことなのか?」という難問が問われることになる。

5-2 ミームの呪縛を脱し、純粋思考を成すに至った人間は、そのように問うことはない。なぜなら、そのように純粋思考を成す人間は、思考しているのが自分であること、そしてその自分が霊たちの世界から来たということを確信しているので、「私は誰なのか」と改めて問う必要などないからである。

5-3 つまり、通常人間は、ミームの縛りにがんじがらめになっているので、自ら考え、純粋思考において自在とは言えない状態にあるだけでなく、そのことを自覚できない。ミームに浸潤された魂を自分だと思い込んでいる。ミームとの一体化/同一化と言ってもよい。

 

6 誰がこのようなミームとの一体化/同一化を解いて、本来の自我を出現させることができるのか。

6-1 ミームと同化した魂に霊的生命はない。本来の生命とみなすことができる霊的生命を欠いたそのような魂は、アストラル的な痙攣と興奮によって、生命の欠乏を補おうとする。エーテル体とアストラル体の健全な結びつきが損なわれているのである。

6-2 ここからその魂に、根源的とも言うべき慢性的な不全感が生まれる。自己疎外であり、自己否定でもある。「何かが自分から奪われている」「今の私は本来の私ではない」「本来の私はこんなにだめな私ではないはずなのに」etc. そのような終わることのない欠乏感が疼く(うずく)。この疼くような感じは、どこまでも追いかけてくる。それから逃れようとして、人は無理をして、自らを傷つけ、他者をやり込めようとする。魂のチキンレースがどこまでも続いてゆく。

 

7 あなたはあなたの本来の故郷を思い出さなければならない。いつまでもさすらい人を気取る必要がどこにあるだろう。

 

8 ”神から生まれる/Ex deo nascimur(エクス・デオ・ナスキムル)”

8-1 ”神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。・・・”(「創世記」第1章)

8-2 ”・・・主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・”(「創世記」第2章)

8-3 人は自らの体を獲得し、この地上を生きる力を得た。個体化して、神から独立するに至った。その体においても、その魂においても。「善悪を知る木」とは悟性魂/心情魂、「命の木」とは意識魂に相当する。神は人に対して「善悪を知る木」「命の木」から食べることを禁じる。だが、人がその魂において自由を獲得するためには、自らの魂を意識魂にまで成長させる必要がある。神が禁じるが故にこそ、自由があると考えなければならない。

8-4 「主なる神は土のちりで人を造り」と述べられているように、人は地上に生きる人間となったのである。つまり、神に造られたとはいえ、物質体をもち、この地上の世界を生きることは、アーリマンの支配下にも入ることを意味する。

8-5 「命の息」とは魂のことである。この時点において、人間の魂は感覚魂である。しかし人間の感覚魂は、悟性魂/心情魂を経て、やがては意識魂にまで変容する可能性を秘めている。

8-6 いずれにしても、部分である人間が、全体に関わろうとすれば、必ず何らかの無理や葛藤が出てくるのを避けることはできない。しかも人間は今や、地上の世界を生きているのである。その人間がどのようにして本来の故郷である霊界を目指すことができるものやら・・・。

8-7 感覚魂 → 悟性魂/心情魂 → 意識魂 という進化の道行を辿ることによってのみ、人間はその故郷へと至る道を見出す。

8-8 ”さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。”(「創世記」第3章)

8-9 へびとはルシファーであり、ルシファーは人間を誘惑する。人はルシファーの誘惑に抗しきれず、「善悪を知る木」から取って食べ、目が開ける。それまでは見えなかったものが見えるようになる。同時に、無垢な魂/感覚魂を失うのである。人がその代わりに得るものこそ、悟性魂/心情魂である。イメージと感情の渦巻く、情念の世界に、人間は生きるようになる。イメージと感情は、文脈イメージのアルゴリズムによって、機械的に構造化されており、融通が利かないのが特徴である。

8-10 イメージと感情/感性が失われるなら、人間の世界はどれほど味気ないものになってしまうだろう。問題は、人がそのようなイメージと感性の世界に過剰に執着してしまうところにある。

8-11 イメージと感性こそ、人間の魂の本質的な性格であり、そのような特徴を有する本来的な魂のあり方を指すために、「アニマ」という語彙が存在している。

8-12 それに対して、文脈イメージのアルゴリズムに浸潤され、硬直した状態にある魂は、「影(かげ)」と呼ぶにふさわしい。