ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』を読む(2) | 大分アントロポゾフィー研究会

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最初に、ゴーピ・クリシュナ『クンダリニー』より、

 

”私は特殊な境地の発現は神の特殊な恩恵の印であって、自分にだけ特別に下賜(かし)されたものであるとか、功績への褒美として自分が獲得したものであるというような見方はしていない。むしろそれは、人類という種に今なお進行中の進化の過程により、すべての人間に存在している一つの可能性であり、既存の精神的限界を超越し、普通の人間の先天的素質をはるかにこえる意識状態に到達せしめるような脳神経系をつくりあげるところのものと考えている。いいかえると、その体験がいかに神秘にして崇高なものであろうと、完全無欠な究極の実相の主観的なとらえ方を示していると考えていた。私としてはこの現象を、進化の階梯を一段高くのぼったことのあらわれとみているわけである。

この現象を物理的、精神的な宇宙法則とは無関係に、直接的に神の意志が介入した結果と考えることは根拠のないことのように思われる。悠久な人類進化の過程において、これまでに人間が達成した進歩は決して偶然ではありえないのであって、各段階をのぼるごとに神の導きと恩恵がなければ、変身ということは決して起こりえなかったであろう。現在の人類が百万年昔の人類よりも神にとっては大事なのだと考えることは、まことに笑止千万なことといえる。われわれが神の働きを創造から、あるいは少なくとも生物進化の全体計画からとりさるのでなければ、太古の最初の生物から人類の出現にいたる生物の発生と進化の軌跡は、今日まだわれわれに理解できていない永遠なる法則を通じて働く神の意志の発動に帰着せざるをえないであろう。

人類が本能のままに地表をはいまわっていたころから、理性的存在の高さにまではいあがってきたその道程の距離は、人類が地上に束縛された生物の境遇から、天にも届く神山の頂上までこれからまだ登っていかなくてはならない道程にとって、必要欠くべからざる一里塚のようなものといえよう。これからの人類の発展進化と同様に、これまでの人類進化も神の意志に起因していたのである。いずれの場合も、進化が上首尾に達成されるかどうかは今なお人間には不可解であるが、厳然としてある宇宙法則を正しく守るかどうかにかかっているのである。

クンダリニーの覚醒は、異常ともいえるほどの精神的努力と難行苦行のすえに起こることもあれば、そうしたことが別になくても突然起こることもある。いずれの場合でも、そこに一つの法則が働いているのである。あるいは、どうみても危機に際しての奇跡的な神の干渉と思われるようなことが起こることもある。私の場合、一再ならず起こったが、この現象は神の恩寵とみる以外には説明のつけようがない。

・・・私が超越的状態で体験したことは、やがて全人類がごく普通の能力として獲得するようになる第二段階の至高意識にすぎないと考えている。もしそこまで人類が到達すれば、現在の時点ではとても考えることもできない、それよりもなお高次の段階を人類はめざすようになるにちがいないと私は確信している。”(ゴーピ・クリシュナ『クンダリニー』中島巌訳 平河出版社 p. 244~246)

 

未だそのための語彙が、完備されているとはとても言えない領域の事柄について、物語ること、説明することは容易ではない。だから、ここでのゴーピ・クリシュナの苦労は察するに余りある。

とはいえ、彼が何をどのように思考し、そして記述したいのか、それは明確である。

未開拓の領域ゆえ、使用する語彙に違いはあっても、ゴーピ・クリシュナのクンダリニー体験とシュタイナーの『自由の哲学』はひとつながりである。そのように私には思える。

 

では早速、『自由の哲学』を読み進めよう。