サウロからパウロへ | 大分アントロポゾフィー研究会

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キリスト・イエスは、弟子たちに、次のように語っている。

 

”・・・あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人(ぎじん)は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。”(「マタイによる福音書」第13章)

 

弟子たちの目が見ているもの、耳がきいているものとは、何か。

それは、キリスト存在である。

過去の多くの預言者や義人たちは、キリストを熱心に求めたが、出会うことはかなわなかった。

 

イエスの魂の内に生きるのは、ミームではない。キリストである。

キリストは、文脈イメージではなく、最高の思考体としての自我存在である。

思考体としての自我存在は、思考を成す。

最高の自我存在は、純粋思考を成す。そして、その強力な自我の力(意志と呼ぶべきである)によって、純粋思考に貫かれた生活において、自在である。

 

弟子たちは、それぞれステージの違いはあるにしても、キリスト・イエスの成す純粋思考に、それぞれの純粋思考で応じることができた。

純粋思考には純粋思考で応えなければならない。ステージの違いはあって、人間である弟子たちが成すことができる純粋思考の広がりと、キリスト・イエスのものとでは、もちろん雲泥の差があったに違いないが、彼らの成す思考が純粋思考である点においては、その大きな差の存在を問題にすべきなのではなく、純粋思考をそれぞれの自我の力によって成すことができたという点にこそ注目すべきなのである。

 

人間において、その純粋思考の原点とみなすべき言葉が、デカルトによって語られた。

 

「我思う、故に我在り/Cogito ergo sum」(ルネ・デカルト『方法序説』)

 

”・・・思考生活は心魂の本質と深く関わっているものであることが実感されるようになり、この結びつきのなかに、存在の内的確実性が体験されるようになる。この発展段階の指標として、精神の蒼穹に光る巨星のごとく、デカルト(1597~1650)によって発せられた「我思う、ゆえに我あり」という言葉が輝く。ひとは心魂の本質が思考生活のなかを流れているのを感じ、この流れを認識することで、心魂自身の真の存在を体験していると信ずる。かくしてひとは、こうした思考生活のなかで看取された存在の内部で安らぐのを感じ、その結果、次のような確信に至る。すなわち、真の認識とは、心魂の内で自己自身のうえに構築された思考生活に出会わなければならないようなかたちで体験される認識でしかありえない、という確信である。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『哲学の謎』山田明紀訳 水声社 p. 35)

 

人間の魂のスクリーン/意識に、意志的/霊的な思考である純粋思考が、入ってくる。そのことによって、意識のスクリーンの解像度が高まる。同時に、意識が焦点化され、それまでの夢のような意識状態ではなくなる。意識は、一種の鳥瞰的な状態から、焦点化された状態へと変移する。

自分と他者との境界が不明瞭で曖昧だった状態から、他者との境界が際立ち、個々のアストラル体において、一人ひとりの人間が分かれる。自己意識が先鋭化する。

 

そのように、いわば人間の個別の自我と共に、純粋思考が、魂の中に入ってくる。

思考体/思考存在としての自我こそが、「わたし/Ich」に他ならないという確信とともに、人は至福に至るのである。

 

・・・人間の試練は、むしろここから始まる。

 

分断の時代が、始まる。他者の謎が、深まる。

「わたし/Ich」の意識が強まれば強まるほど、「わたし/Ich」ではないものの存在が、はっきりとしてくる。

それは、端的に言えば、他者であり、「それ/Es」として現れる。

そして、人類は他者の謎をいまだ解明してはいない。いまだミームに囚われた状態にある。そして、それに無自覚である。

 

「わたし/Ich」という根源的なるものが、魂の内に誕生すると、同時に、「わたし/Ich」ではないもの、つまり他者、「それ/Es」というやはり同等に根源的なるものとの対比が、白日の下にさらされる。対比は明らかになるが、「それ/Es」の正体はよくわからない。それが、根源的なるものであることは、疑いようもなく自明だが、にもかかわらず、それは正体不明なのである。

 

「それ/Es」とは、何ものなのか?

 

やがて、人は気味の悪いことに気づく。

「自分以外のすべての人間が、他者、つまり『それ/Es』に他ならず、隣人や友人だけでなく、夫や妻、そして親類縁者みんな、他者だ。息子や娘も、孫も、みんな・・・」と。

 

「それ/Es」の本性(ほんしょう)は、「もの」であり、それ故、「それ/Es」に精神性/霊性はない。だから、自分以外のすべての人間が、「それ/Es」であるとは、彼らが本当は人間ではないということになる。なぜなら、彼らには心がない、精神をもたないのだから。

「それ/Es」への疑いが生じると同時に、ひるがえって、「わたし/Ich」への疑念が芽生え始める。

 

「我思う、故に我在り/Cogito ergo sum」という根源的な純粋思考に対する確信が、揺らぎ始めるのである。

私は、外に他者を見るのみならず、自らの内にも他者を見るようになる。

外界を疎外し、自己を疎外する。外なる疎外と内なる疎外。いずれにしても、疎外こそが他者の本性であることは、もはや明らかである。

疎外と排除、そして分離/分断/分裂が、この地上の世界を生み出し、ものごとを牽引(けんいん)する力学であり、その多様性の生みの親でもある。

 

これこそ、他者性というものの冷徹な本質である。

「それ/Es」は、そのように私たちの前に現れる。

 

結論めいたことを先に言うとすれば、霊的な他者との関係性、霊的存在同士の関係性に言及するもの(それは純粋思考である)こそ、倫理であり、唯物論からは、いかなる倫理も生まれないのである。

 

(そして、最高の倫理とは、キリストである。*これが、最高の秘密/秘蹟である。)

 

さて、「それ/Es」は、霊的な他者ではない。

霊的な他者とは、「あなた/Du」である。

 

”さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書(てんしょ)を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねた。すると答えがあった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちはものも言えずに立っていて、声だけは聞こえたが、だれも見えなかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。

さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でさうろというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして精霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。

サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱっていくためではなかったか」。しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。”(「使徒行伝」第9章)

 

いずれにしても、ダマスコへと至ったサウロが、パリサイ派のミームに囚われ、キリスト・イエスに敵対する道を歩んだのは、キリストが彼に課した試練の一部であった。キリスト自身が、「あの人(サウロ/パウロ)は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼(サウロ/パウロ)に知らせよう」と語るように。

サウロはエルサレムへの道行の途上、ダマスコでキリスト・イエスからロゴスの威力を浴びせられる。突如、キリストがサウロの前に現れ、二人称で語りかける。

 

「・・・道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねた。すると答えがあった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう』。・・・サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。」

 

自分が敵対してるキリスト・イエスから、「サウロ、サウロ」と名指しされ、親しく「あなた」と呼ばれるサウロ/パウロ。これは、聖霊降臨に匹敵する出来事である。サウロは、ロゴスの威力に圧倒され、パリサイ派のミームに対する執着とそれへの依存が揺らぐ。それまでパリサイ派のミームを通して見えていた世界が見えなくなる。「それ/Es」の世界が消えたのである。

「それ/Es」が消えると、本来の他者が姿を現わす。サウロ/パウロはその時、その人に「主よ、あなたはどなたですか」と二人称で語りかける。サウロ/パウロの「わたし/Ich」の前に、「あなた/Du」としてキリストが現れる。