アストラル体とエーテル体についての考察 | 大分アントロポゾフィー研究会

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アストラル体が、意識をもたらす。

エーテル体は、生命をもたらし、体(たい)を成長させ、生殖を司るが、それのみではなく、そこにはロゴスとしての思考が流れ、成された思考はそこに記憶となって、蓄えられる。

 

さて、これらの成り行きについて、考察を深めてみよう。

 

1 ロゴスとしてエーテル体を流れる思考について、言及することは、自然科学の文脈においては、非科学的であるとみなされる。「ロゴス」「エーテル体」は、現代自然科学のタームではないし、「思考」について、事実に即して、思考し記述する「学/science/Wissennschaft」は、未だ現れていない。

1-1 上に挙げた「ロゴス」「エーテル体」「思考」などについては、アントロポゾフィー/Anthroposophie の文脈においてのみ、考察し得る、と私は考える。

1-2 他の諸科学については、それらはミームに他ならず、その当事者である科学者たちは、自分たちが「科学的」だと主張するかもしれないけれども、実際は、種々の思い込みや先入観から抜け出せない状態であるように見受けられる。

1-2-1 それは、アーリマン/ルシファーに浸潤された悟性魂/心情魂である。三次元空間と重力、そして文脈イメージの集積とも言えるミームに由来する時間(過去から未来へと流れるかに思われる)によって、私たちの魂の空間、すなわち意識は支えられているのである。奇妙な言い方になるが、通常、意識は意識から抜け出すことはできない。この状態を、「主観」と呼ぶこともできるが、それによってかえってイメージの混乱と不明瞭化を招くことが予想されるので、この言葉は、ここでは使わないようにしようと思う。

1-2-2 現代の科学が、その拠って立つ思考枠である唯物論を超克しない限り、いわゆるパラダイム・シフトは起こらない。

1-2-3 現代の科学が、そのようにしてパラダイム・シフトを成し遂げるのを、ただぼんやりといつまでも待ち続けているわけにはいかない。なぜなら、そのような現代の科学は、一つのミームであり、文脈イメージでしかないからである。プロの科学者ではない私たちは、思考する一人の人間として、彼ら科学者たちと、その思考能力において区別されなければならない理由などなんらない。自分で考える/思考する、というこの一点のみが肝要である。何らかのミームの文脈イメージをただなぞっているだけでは、自分で思考したことにはならない。そのようなミームの模倣/複製を、思考だと勘違いする向きが一般的なのである。

1-2-4 科学者であれ、他の何者であれ、誰もが自ら純粋思考を成すことができるようになれば、パラダイム・シフトが起こる。そのとき、唯物論的な現代科学というミームが超克される。

 

2 ロゴスとしてエーテル体を流れる思考とは、純粋思考に他ならない。

2-1 この純粋思考/エーテル体が、悟性魂/心情魂の生み出す意識/アストラル体に対比される。

2-2 人間のエーテル体を流れる純粋思考と同種のものを、動物を突き動かし、その行動を支配する本能に見ることができる。また、植物のエーテル体の中にも、同種のそれを見ることができる。植物の有無を言わせぬばかりの規則性を見せるその生長、生命のリズム。

2-3 「母の胎内で肉体という機械をつくりあげ、これを統御し、病身にあってはこれを保護し、危険に際してこれを支え、傷を受けるとそれをいやし、就寝中も精神錯乱中も、無意識の中でも、黙々として身体の管理をしているのは何か。風が葦を動かすように、身体の中に衝動と傾向を生みだし、それを動かしているものはいったい何か。実は、これらのことすべてを遂行しているものこそプラーナにほかならない。プラーナは常に舞台の背後に退いて表には出てこない。そこで、表面意識はついつい、自分が考えたり行動したりする際の主体だと思いこんでしまう。しかし、その真実の主体は、人知をこえた不可思議な実体、宇宙エネルギーの生命的発現たるプラーナ・シャクティなのである。」と、ゴーピ・クリシュナは述べている。人間の体におけるプラーナの現われであるクンダリニー。これはヒンドゥーの伝統における名称であり、アントロポゾフィーの用語では、エーテル体である。両者が同じものなのかどうかという問いに対する答えは、当然のことながら、ヒンドゥーの伝統からも、アントロポゾフィーの概念体系からも、他力的には、出てこない。自分で考えて、答えを出すしかないし、それで何ら問題はないのである。このとき、私の成す思考が、ミームに囚われていないとしたら、その思考は純粋思考である。

2-3-1 いずれにしても、クンダリニーもエーテル体も、現代科学のタームではないから、それをまたぞろ自然科学的に引き寄せて、換言する必要はないどころか、そのように自然科学にいわば媚びを売るような姿勢は、いわずもがななのである。そんなことでは、ただ言葉遊びをしているだけだ。

2-3-2 そうではなくて、とりあえず、まずは、自ら純粋思考を成す勇気をもたなければならない。そして、その勇気は、自ずと出てくるものでなければならない。そのような勇気は、いわば、日々の生活態度の一部なのである。日々の生活を、今まで以上に意識的に成すことが、純粋思考を鍛えるもっともよい、無理のないやり方である。

 

3 ゴーピ・クリシュナのプラーナ~エーテル体のここでの特徴づけにおいて、抜けているのは、エーテル体が記憶の担い手でもあるという点である。

3-1 エーテル体に蓄積される記憶を長期記憶、アストラル体に一時的にとどめ置かれる記憶を短期記憶と特徴づけておくことは、あながち的外れではない。

3-2 長期記憶は純粋思考を成す上で欠くことができない。短期記憶はミームのアルゴリズムをなぞる上でなければならない。

3-2-1 純粋思考の担い手は、霊的な自我である。純粋思考を成し、地上の日々の生活を送る中で、自我は成長を遂げる。純粋思考を成す自我にとって、日々の地上の生活は、出来事としてその真の姿を現わす。

3-2-2 出来事は常に、ミームのアルゴリズムの向こう側に生起する。ミームに囚われた魂の前に、出来事が現れることはない。そのような魂の前に現われるもの、そのような魂の意識が見るもの、それは他ならぬミームである。ミームからはミームしか見えない。

3-3 出来事に裏づけられた長期記憶をあまり持たない人は、日々の生活の必要上、ミームに頼らなければならない割合が増える。そのような人は、自律性をもたず、他者に同調する傾向が強くなる。

 

4 出来事は、人が独りでは生起しない。二人以上の個が何らかの関係をもって、初めて生起する。

4-1 この場合、その一人は必ず「わたし/Ich」を名乗り、その人の前に必ずいる他者に、その人は「あなた/Du」と呼びかける。

4-1-1 成り行きの核に、少なくとも、「わたし/Ich」-「あなた/Du」という個と個の関係性がなければならない。この関係性を基礎として、人が何事かを成すとき、そのとき初めて、出来事が起こる。

 

*出来事 - (エーテル体) - 記憶 - カルマ - 自我