エーテル的思考としての純粋思考(9) ~ 一つのノスタルジア/メランコリア〈5〉 | 大分アントロポゾフィー研究会

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”アヤワスカ体験から戻ったあと、スージーは気分がよくなったふりをしていたが、わたしには彼女がまだリーナのことで悲しみに暮れているのがわかった。

彼女のもの悲しい気分が伝染して、わたしも数週間にわたって暗い気分に陥っていた。わたしはスージーや、子供たちや、あらゆる人の死が確実に起こることに打ちのめされ、夜中にパニックに襲われ目を醒ますのだった。

わたしはアン・シュルギンがいっていたことを思い出した。わたしたちが本当に見ているとき、わたしたちは恐怖と爽快な気分のあいだのきわどい均衡の上(剣が峰)に立っている-「なぜなら両方存在するから。あの恐ろしい闇とあの絶対の生(せい)が」

わたしには闇しか見えないような気がした。スピリチュアルの教師たちの何人かは、死をじっくり考えることが、わたしたちが人生に感謝する助けとなると助言している。でも、どうして死を探し求めるのだ? 遅かれ早かれ向こうが私たちを見つけるのに。いちばん良いスピリチュアルの助言はいちばん単純なものだ。注意をはらうこと。見るのだ! いやむしろ、大事にすること。あなたが持っているものを、それが消え去ってしまう前に大事にすること。

わたしはスージーを慰めようと最善を尽くし、そして彼女はわたしを慰めようとしてくれた。そしてある時点で、重要なのはこういう慰めだけなんだと、ふと思った。

・・・

神は気にかけてくれるだろうか? 誰にもわからない。

だがわたしたちは気にかけるのだ。わたしたちの安堵(あんど)-そして救済、もしわたしたちが救われるのならの話だが-は、神の同情心からではなく、わたしたちの同情心からこそ生まれるのだ。

ケン・ウィルバーは『グレース&グリット-愛と魂の軌跡』で暗に同じ意見を述べている。この本では、彼と妻のトレヤがいかに彼女の胸の癌(がん)に対処したかが語られている。彼女が最後の望みをかけた治療を受けるために滞在していたドイツでのある夜のこと、ウィルバーは絶望に飲み込まれた。

(俺のクソ忌々しい(いまいましい)人生はめちゃめちゃだ。トレヤのためすべて投げ打ったのに、今、その最愛のトレヤが、死にかけている)

彼はふらふらとパブにさまよい込んで飲み始めた。彼の苦悩を感じとったのか、年輩のドイツ人男性のグループが彼をカウンターのスツールからひっぺがして自分たちと一緒にポルカを踊らせた。彼は踊りながら泣いたり笑ったりした。ウィルバーは自分を憐れむ気持ちが洗い流されてゆくのを感じた。

「わたしの大いなる悟りは、何か強力な瞑想体験で光り輝く白い光につつまれてもたらされた-といいたいところだが」とウィルバーは書いている。「それは名前も知らず、言葉も通じない、親切な老人たちがたむろする小さなパブで起きたのだった」

振り返ってみると、わたしはこの教訓をアヤワスカでトリップした翌朝に直覚していたのだ。願かけしたロープの結び目を解く番がきたとき、わたしは仲間たちに、この会でいちばんよかったのは、みんなと知り合えたことだと告げた。その言葉はあまりにも感傷的に響いたので、そのときは即座にいったことを後悔した。わたしは自分自身の誠実さを疑ったのだ。自分のいったことがどんなに重みがあったか気づいたのは、あとになってからだった。

奇怪なDMTのヴィジョンにどっぷりつかって、わたしは完全な孤独を感じた。森羅万象が冷たくて非人間的に思われ、そしてわたしは外側から中をのぞいていた。だがそうした幻覚は、仲間たちとの交流のひとときによって遮られたのだ。幻覚に襲われていたわたしにトニーが大丈夫かと声をかけてくれたとき、リンダがわたしのために農場の正面ゲートを開けてくれたとき、トニーやケヴィンやブレイドやマイケルと海を見渡す山肌でとりとめもなくしゃべっていたとき、わたしは共通する人間性のようなものを感じた。

わたしは星々に、ヴィジョンに、神秘的直覚に、慰めを見いだそうとしていたが、あの夜、わたしが見つけた唯一の慰めは、人間的な仲間づきあいだった。

わたしはとうの昔にこの教訓を学んでいるべきだった。1981年のドラッグによるトリップの直後の時期、わたしが世界の核心に見た闇は、自分が住んでいる世界よりも現実的に思えた。そのトリップからほぼ1年後にスージーと出会って恋に落ちるまで、人生と自分自身からの遊離感は最終的に静まらなかった。・・・”(ジョン・ホーガン『科学を捨て、神秘へと向かう理性』竹内薫訳 徳間書店 p. 353~356)

 

いずれにしても、ジョン・ホーガンが、旅路の果てに、Du/あなた にめぐり会い、そのことを通して、彼自身の Ich/わたし を見出したということは、この文章によって分かる。

彼は、Du/あなた の体験を、ここでは、ケン・ウィルバーの同様の体験も引きながら、「みんなと知り合えたこと」「共通する人間性のようなもの」「人間的な仲間づきあい」「スージーとの恋」そして「慰め」という言い方で表現している。

ケン・ウィルバーにならって、(少し比喩的に)言えば、「それは名前も知らず、言葉も通じない、親切な老人たちがたむろする小さなパブで起きたのだった」。なかなかチャーミングな言い回しだ。

つまり、それは、この地上のどこでも起こり得る。なにかの巡り合わせで、彼と彼女、それから何人もの人たちが、そこに出向き、集い、目配せ(めくばせ)を交わし、言葉を交わし、そして(運が良ければ)何かに気づく。

 

ジョン・ホーガンは、「いちばん良いスピリチュアルの助言はいちばん単純なものだ。注意をはらうこと。見るのだ! いやむしろ、大事にすること。あなたが持っているものを、それが消え去ってしまう前に大事にすること。」と述べているが、多くの場合、わたしたちは、「それが消え去ってから」、失ったものの貴重さを思い知るものだ。