生と死のダンス ~ Es - Ich - Du | 大分アントロポゾフィー研究会

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わたしに 肉体が あって、

それが うごめいている という 事実を

すこし 斜めから 見たとき、

不思議な/奇妙な 薄気味悪さを おぼえる。

 

そのように

わたしが 自らの 物質体に 出会ったとき、

そう、わたしが Es/それを 見たとき、

Ich/わたしは 死/アーリマンに 見入られていたのだ。

 

Ich/わたしが 死/アーリマンの 桎梏から 逃れるためには

その 有無を言わさぬ 虚無の 王の 支配を 脱け出るためには

・・・わたし ひとりでは それは できない。

 

きっと Du/あなたが おとずれる。

霊である Du/あなたが 霊である Ich/わたしの 前に 現れる。

 

ひとが 死の際に あるとき、

アーリマンを 直視したとき、 (アーリマンに 見入られたとき)

生と死の深淵を のぞきこみ 身をすくませるとき、

そのようなときには かならず Du/あなたが 現れる。

 

鉱物界/アーリマン領界の 非情と 虚無とを 目の当たりにした 人間は だれもが

自らの 非力/無力を 思い知る。

自分のものだと思っていた 肉体/物質体が Es/それ と呼ぶほかない 他者であることが 明らかになる。

 

その一方(いっぽう)で、

魂の アストラル空間は これまた Es/それ/他者である イメージ/感情で 充満している。

ちょうど 夢を 見るように。

 

魂の アストラル空間は 映像的イメージと 文脈イメージとから 成る。

イメージというものは 思考を 介さずに 出てくる というところに 大きな 特徴が ある。

だから わたしが 気づいたときには すでに そこに ある という具合に、

まさしく 所与(しょよ)として 現れる。

しかも 解決済みの 事柄として もはや 思考の 介入する 余地は 残されていないのである。

 

低次の 自我/地上的自我は

イメージさえ 得られれば

もう 考える 必要は ないと

決めつけて/即断(そくだん)して

ぬけぬけと 得意顔(とくいがお)で 安心する。

 

文脈イメージは 一見 思考のように 見えるが、

実は そうではなく、 何ら 新しい ところの ない 出来合い(できあい)の 言語ゲームのような もの、

過去に すでに あった ものの コピー、 因習(いんしゅう)と 同定される。

そこに 思考は 働いていないから、 個々の 文脈イメージに対して だれも 責任を 持たない。

その 正否や 善悪は すでに 決定しており あらためて 熟慮する 必要は ない ということになっている。

それに ちょっとでも 疑いを 差し挟もう(さしはさもう)ものなら それは とんでもない 野暮(やぼ)だと 見下される。

「余計なこと言うな」「つまらないことするな」と 蔑まれる(さげすまれる)。

 

つまり、 そこには 偽りの/仮面のような わたしだけが いて、

その わたしは 魂の アストラル空間と 同化しており、

その 空間に 立ち現れる Es/それとしての 他者である イメージたちを 相手にしているのである。

イメージたちを 手なずけ 支配しようと そのことばかりに 忙しい。

 

霊/思考体/純粋思考が、魂の中に入ってくるとき、

魂の空間は、通常とは異なる光を帯び、

純粋思考としての音楽を、天使たちが奏でる。

その音楽は、わたしの体(たい)のすべてを、振動させ、体に備わる(神々に由来する)純粋思考と共鳴する。

 

本来の時間、アルファでありオメガであるもの、霊的な自我が、姿を現す。

空間が時間となり、時間が空間となる。(cf. リヒャルト・ヴァーグナー『パルシファル』)

死と呼ばれている、もともとは生の成り行きであるものが、結局のところ、やはり、生の一局面に他ならないことが、明らかになる。

 

~ 人類の星の時間だ。(cf. シュテファン・ツヴァイク)