思考および自我をめぐる覚書 ~
1 高次の自我が、思考体(しこうたい)であるのに対し、低次の自我は、イメージ体である。
2 高次の自我を、自我体(じがたい)と呼ぶことができる。
2-1 高次の自我が、個体として思考し、そして意志するからである。
2-2 人間の高次の自我は、個(こ)であると同時に、一つの全体(ミクロコスモス)である。
2-3 そのように、個として他の個と区別され、思考/意志することによって自我という精神的実体であるから、自我体と呼ぶことが相応しい(ふさわしい)。個として他の個と区別されるということは、体(たい)を持つこと、体であることを意味するのである。他者との間に境い目(さかいめ)があるのだ。分け隔てられているのである。
3 思考、感覚/感情、意志の結びつきによって、意識が生まれる。
3-1 アーリマン的に硬化(こうか)し、生命を失った思考、ルシファーに浸潤(しんじゅん)され、過敏かつ過剰になった感覚/感情、そして薄弱な意志から、現代人の意識は現象している。
3-2 思考によって(のみ)、人間は自らの意識の外に脱け出る可能性を持つ。純粋思考によってのみ。
3-3 人間は、思考体となって、自らの意識/イメージ体から脱け出る。思考体が、イメージ体と対置されるのである。
3-3-1 意識を、イメージ体/低次の自我と同定(どうてい)することが、適切である。
3-3-2 ”イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子となる。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。・・・」”(「ヨハネによる福音書」第8章)
3-3-3 真理、すなわちロゴス/精神/思考体によって、人は、依存/執着(する傾向)、そして囚われ(とらわれ)/因習から解放される。アーリマン/ルシファー幻想から自由になるのだ。
4 意識の外へと脱け出た自我体/思考体/純粋思考は、どこへ辿り着く(たどりつく)のか。
4-1 霊的外界/霊的宇宙/霊界/精神界へと、入ってゆくのである。
4-2 そこは、思考/思考体のつづれ織りの世界である。そこで、自ら思考体である人間は、自分以外の思考体たちに出会い、そのことによって、成長する。出会いは一度きりではないが、同じ出会いは二度とは起こらない。出会いは、常に新しい。
4-3 そのような出会いは、霊的な出来事であり、思考体である霊たちが、交感/交歓(こうかん)し合うのである。そのような交感/交歓のことを、コミュニオンと呼ぶことができる。
4-4 そのようなコミュニオンの在り様(ありよう)が、アカシャ年代記に記録される。
4-5 アカシャ年代記とは、いわば、カルマのつづれ織りのようなものである。