人類の星の時間についての考察 | 大分アントロポゾフィー研究会

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高次の自我のみが知る、じぶんがそのときに、今(いま)あることを。

それは(いま)、星の時間だ。人類の星の時間 Sternstunden der Menschheit(シュテルンシュトゥンデン・デア・メンシュハイト)・・・

 

低次の自我は、それをいつも取り逃し(とりにがし)続け、それとは別のあまり価値のないものを手にする。毎度のことだ。

 

 

人類の星の時間に、あなたの肉体/物質体は、その霊的本質を明らかにするかのように、光り輝く。まるで、夜の天空に輝く星のように。

ところが、あなたが、その快楽/悦楽(えつらく)に過剰(かじょう)に執着し始めると、何もかも台なしになってしまう。

星の時間は、あなたから去ったのだ。

 

”六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。・・・光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。・・・”(「マタイによる福音書」第17章)

 

”・・・それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。

「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」”(「ルカによる福音書」第10章)

 

”さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。主は言われた。

「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。”(「創世記」第6章)

 

いずれにしても、霊と肉/物質との兼ね合いが、鍵となる。

「人の娘たちが美しい」のは、彼女たちの肉体が、他ならぬ霊の反映だからである。

神の子らは、人の娘たちの現われに、肉のみならず、霊も見る。

肉体の戯れは、そのまま霊たちの戯れである。

 

しかし人間は、この地上の世界において、その個体性を、いわば確立せねばならない。

主(しゅ)の「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。」という言葉は、人間は全体的な霊/神から離れ、人間自身の霊/精神を、つまり個体性を獲得しなければならないという要請だと、理解することができる。

 

人間が、創世記のときから、すでに、高次の自我、人間における最高の個体性を、成長させていたと考えることはできない。

 

”主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。

「わたしは人を創造したが、これをぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。”(「創世記」第6章)

 

アーリマン/ルシファー由来の感情と情念の迷宮に、人間は迷い込んだ。アーリマン/ルシファー幻想だ。

低次の自我の世界である。

低次の自我も、その個体性という性質において、高次の自我と変わらない。

いずれにしても、人間の高次の自我は、低次の自我のいばらの道をくぐりぬけてこそ、成長を遂げる。

聖パウロが、そのことを身を以て体現し、キリストへと至ったことが、「使徒言行録」に明らかである。