”「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」”(「マタイによる福音書」 第7章)
”・・・イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修業を積めば、その師のようになれる。・・・」(「ルカによる福音書」 第6章)”
人の目には「おが屑」や「丸太」が、はりついている。文脈イメージ/イメージ体が、私たちの魂にはりついて、それが低次の自我となる。あるいは、低次の自我の眼鏡となる。
低次の自我は、自らの作り出した文脈イメージ/イメージ体を媒介として(通して)、外を見ている。もちろん、内も見る。この心理的空間/社会空間/鉱物的宇宙が、まさしく幻想/迷宮のように私たちを取り囲んでいる。
この幻想/迷宮こそが、私たち自身の低次の自我そのものであり、低次の自我はどこまで行っても、それが鏡に映った自分の姿だと気づかずに、・・・誰もがそのような状態だとすれば、ほとんどすべての人間がそのような低次の自我の迷宮の内にあって、それを自覚していないとすれば、・・・そのような自らの低次の自我を、他者から「裁かれた」としたら、その人は侮辱されたと感じて、不快な気分になることは間違いない。しかも、その他者にしたところが、やはり程度や状態の違いはあれ、彼自身の低次の自我に拘束されているのだから。
・・・だれが 低次の自我に 囚われているのか・・・本来の自我/高次の自我の萌芽と言うべき霊的なものが、まだ十分に成長しきれずにいるのである。
それは、ひとつの霊/精神である。
次の場面は、ゴルゴタの丘でのキリスト・イエス。
”ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦し(ゆるし)ください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。”(「ルカによる福音書」 第23章)
まさに「おが屑」や「丸太」が目にはりついた人々(「彼ら」「議員たち」「兵士たち」)が、いかに無自覚であるかが、露骨に描かれている。「彼ら」は「自分が何をしているか知らない」と、キリスト・イエスが語っている。
そして、キリスト・イエス自身が、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」と語った通りの出来事が、他ならぬゴルゴタの丘において展開している。
最高の霊/精神を眼前にしながら、「彼ら」には、そのことがわからない。
ただし、「彼ら」は、いつまでも闇に閉ざされたままであり続けるのではない。
キリスト・イエスが、「だれでも、十分に修業を積めば、その師のようになれる。」と語っているのだ。
たしかに、一生を通じて、霊的に目覚めることなく亡くなる人もいるだろう。理由はともかくとして、一つの生涯を通して、目覚めることなく、低次の自我に囚われたまま死んでゆく人もいるだろう。
だが、それで終わりではない。
つまり、人は輪廻転生を繰り返し、カルマを編み上げてゆく。
「彼ら」一人一人のカルマに関与するために、キリストはこの地上の世界にやって来た。これこそ、「メシア」という言葉の意味するところである。
私たち一人ひとりの人間は、他ならぬキリスト存在を、「あなた」と呼ぶ運命にあるのだ。