”いま/ここ”、カルマ、それから高次の自我についての覚書 | 大分アントロポゾフィー研究会

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”・・・長患いでしたが、私は最後の一週間母につきそったおかげで、母と心から許しあえるようになりました。母と息子という立場とか、それぞれの人格を超越したところで、真実の触れあいにまで到達していたのです。私は病院でひたすら瞑想していました。そして、母の死にさいして、喪失感はありませんでした。それどころか、おそろしいほどに母との心の交流が続いていたのです。事実、ネパール滞在中のことですが、眠りにつこうとしていたとき、私は母の幻影(ヴィジョン)を見ました。母は天井に現われ、インドに戻るべきか日本への旅を続けるべきかと迷っていた私に、「馬鹿だねえ、この子は。おまえはいつもぬるま湯につかっているんだから。迷わずに行きなさい。きっといいことがあるよ」というような表情をしたのです。じれったさと満足がいりまじったような表情でした。彼女はボストン生まれの中流階級の女性で、息子にも全面的に中流階級の保守的な価値観を尊重するように望んでいました。そして、もうひとつ奥に、ヒップで果敢な母がいたのです。その霊が「行きなさいよ、おまえさん」と言うのです。私には、母の表情に浮かぶふたつの存在がふたたびインドへと帰る私を支えてくれているような気がしました。”(ラム・ダス+ラマ・ファウンデーション『ビー・ヒア・ナウ 心の扉を開く本』吉福伸逸+上野圭一+プラブッダ訳 平河出版社 p.45,46)

 

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鉱物界/地上の世界の時間が過去から流れ、エーテル界の時間が未来から来る。

これら二つの時間が交錯するところが、”いま/ここ”である。

 

高次の自我は、常にこの、”いま/ここ”に在り、あらゆる低次の自我を超越している。

 

カルマは、いくつもの低次の自我/ルシファー幻想/イメージ体を媒介にして、いわば成長し、高次の自我に資する。

高次の自我は、低次の自我のすべての善と悪との彼方にあり、それらすべての善と悪を、自らの成長の栄養にする。