出来事/歴史と芸術を通して、人間が霊存在/精神存在であることが、明らかになる。
霊存在/精神存在としての人間の最大の特徴は、その個々の存在における唯一性/一回性ということである。
非霊の霊、アーリマンに由来するものは、その唯物性と機械性が特徴的である。
唯物論/唯物主義は、アーリマンから来る。コンピューターに象徴される機械性は、アーリマンに由来する。
このようなアーリマン性に対して、現代文明はあまりにもナイーブに過ぎ、あろうことか無邪気に依存しきっている。
情念の神、ルシファーは、人間のアストラル体に浸潤して、人間の低次の自我と同化している。アーリマン由来の唯物主義と結託して、人間の魂をルシファー幻想とも言うべき、驚くべき迷信と空想のイメージ体の内に閉じ込める。
出来事は繰り返さない。霊存在/精神存在としての人間の個体性と同様に、出来事/歴史においても、そのプロセスの唯一性/一回性が際立っている。芸術においても、また同様に。
つまり、霊/精神においては、唯一性こそがその本質であり、他との比較のような所作は、むしろその本質を見誤らせることになる。
私という個の一回限りの生における、この一刻一刻に純粋思考と共に安らぐ、あるいは集中するということが、事柄の肝である。このような生の営みを、瞑想(めいそう)と呼ぶ。
純粋思考は、瞑想である。瞑想は、純粋思考である。
イマギナツィオン Imaggination、インスピラツィオーン Inspiration、イントゥイツィオン Intuition は、いずれも純粋思考の特性を有する。
迷信や空想の類、要するにルシファー幻想であるイメージ体は、純粋思考ではなく、瞑想ではない。
純粋思考は、エーテル体に由来しており、アストラル体に巣食ったイメージ体を介さずに、対象へと至る。
イメージ体は、飽くことなく、自らの写し/コピーを生み出し続ける。まさに惰性(だせい)である。
つまり、イメージ体には独自性はなく、唯一性/一回性という霊的性質がない。そこに生命(いのち)はないのである。