一つのインスピラツィオーン/Inspiration | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

ブログの説明を入力します。

”人間の悟性は常に、ものごとを理解できる基準を求め、対比を試みます。しかし、比類ないものを比較することはできません。ゴルゴタの秘儀は無類のものなので、理解が困難なのです。・・・

今日の人間は、なによりも自分の理性と理解能力に関して、知性を発展させてきました。ものごとを知的な観点から理解するのを、現代人は好みます。

しかし、人間が感覚世界から超感覚的世界への境域を越える瞬間、現実を悟性という手段のみで把握できる可能性はなくなります。人間の悟性は、地上ではよく役目を果たします。しかし、超感覚的世界に歩み入る瞬間、悟性は認識を得る手段として、もはや十分ではありません。

悟性は、なによりも区別することを好みます。そして、ものごとを理解するために、定義を必要とします。・・・現実の事物を、定義によって把握することはできません。

たしかに、よい定義と悪い定義があります。包括的な定義と、不十分な定義があります。地球の要件を理解するためには、定義は必要です。しかし、現実に属するものごと、すなわち超感覚的な現実に属するものごとを理解しようとするなら、定義はできません。性格を述べねばなりません。事実と存在を、あらゆる視点から考察する必要があるからです。

定義は常に一面的です。・・・多面的で多義的なものを定義しようとすると、定義は不十分であり、性格を述べることしかできないということを、私たちはしばしば思い出すことができます。

しかし、さまざまな存在を超感覚的世界で区別するために、人々は定義を欲します。「その存在は、厳密に言えば何か」と、人々は問います。

しかし、超感覚的世界のなかに入っていけばいくほど、超感覚的世界の存在たちは浸透しあっています。その存在たちは、たがいに境界を持たず、区別することが困難です。”(ルドルフ・シュタイナー『エーテル界へのキリストの出現』西川隆範訳 アルテ p.114~117)

 

”僕は、初めから科学に魅せられていたわけではなかった。大学生の頃は、文芸評論こそが、感動的な英知の賜物(たまもの)だと思っていた時期もあった。ある夜更けのこと、コーヒーをガブガブ飲みながら、こつこつとジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』の解釈に取り組んでいた。すると、晴天の霹靂(へきれき)のごとく、僕は大きな疑問に襲われた。お利口さんたちが、『ユリシーズ』の解釈を巡って、何十年も意見を闘わせてきた。しかし、現代の評論や文学が言わんとすることは、文章なんてものは、もともと「皮肉っぽい」ものだ、という結論だった。意味が幾重にも重なっていて、解釈の決定打など存在しないのだ。『オイディプス王』やダンテの『神曲』、そして聖書さえも、ある意味では、「冗談だよ」(just kidding)なのであり、文字通り解釈してはいけないのだ。意味を巡る論争が解決された例(ためし)はなかった。あるテクストの唯一の真の意味は、そのテクスト自身なのだから。もちろん、この結論は批評にも当てはまる。批評は、止めどもない解釈の繰り返しに過ぎず、どれも、決定打ではなかった。それでも、まだ、みんなが論争を続けていた!何を求めて?批評家たちは、自分の批評が、他の批評よりも、賢明で、面白いことだけを狙っていたのだ。僕には、すべてが無意味に思われてきた。”(ジョン・ホーガン『科学の終焉(おわり)』竹内薫訳 徳間書房 p.16)

 

”ゴルゴタの秘儀が行なわれたとき、ナザレのイエスの地上的な身体が地球の元素に渡されたということを、私たちはさまざまな報告から知っています。その時から、キリストは地球の霊的領域に結び付き、そのなかに生きています。すでに述べたように、ゴルゴタの秘儀を叙述するのは非常に困難です。比較するものがないからです。しかし、別の観点から、ゴルゴタの秘儀に接近を試みてみましょう。

キリストは、ヨルダン川での洗礼ののち、ナザレのイエスの身体のなかに三年間生きました。地上の人間のように生きました。私たちはこれを、「物質的人体におけるキリストの地上的開示」と名付けることができます。ゴルゴタの秘儀において物質的身体を捨てて以来、キリストはどのように開示するでしょうか。

もちろん、私たちはキリスト存在を、圧倒的に高次の存在と表象しなければなりません。しかし、そのように高い存在であっても、ヨルダン川におけるヨハネによる洗礼ののちに三年間、人体のなかに現われることが可能でした。

そのとき以来、キリスト存在はどのように開示したでしょうか。もはや物質的な人体においては開示しません。物資的な人体は物質的な地球に引き渡され、地球の一部になりました。神秘学の研究をとおして、この状態を洞察できるようになった者には、「キリストは天使の位階に属する存在の姿で再認識される」ということが示されます。救世主がヨルダン川における洗礼後三年間、人体のなかに開示したように、そのとき以来、キリストは非常に崇高な存在であっても、天使存在として、直接的に自らを開示します。人間よりも一段高い霊的存在として自らを開示します。”(ルドルフ・シュタイナー『エーテル界へのキリストの出現』西川隆範訳 アルテ p.123,124)

 

”・・・ビルロートが友人に宛てた手紙には次のように書かれている。「今朝はブラームスがキルヒナーと二台のピアノでリストの交響詩を弾いた!なんと恐ろしげな音楽だろう!・・・我々はブラームスの新しい六重奏曲(作品36)で口直しをしたんだ。・・・」-こうしてスイスのドイツ語圏では、・・・”(三宅幸夫『ブラームス』新潮文庫 p.83)

 

”しかし、若きブラームスはリストの音楽傾向に批判的で、ヴァイマール滞在時に彼がリストに対して抱いた居心地の悪い印象は、新ドイツ派の傾向にたいする批判とひとつになってブラームスの中で増幅されていき、その後も1859年8月7日付のヨアヒム宛の手紙の中でブラームスは、「ヴァイマールの連中は騒音を鳴らしつづけている」、「彼の作品はますますひどくなってきた。たとえば《ダンテ交響曲》」と記す。・・・”(西原稔『ブラームス』音楽之友社 p.26)

 

もちろん私は、リストの『ダンテ交響曲』は大好きである。そして、ブラームスのイメージ体からしたときには、ブラームスが『ダンテ交響曲』をこき下ろすのも、十分理解できる。実に興味深い。

 

”・・・この曲(ブラームス『ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83』)は、マイニンゲンでビューローと試演したのち、ブダペストで作曲者自身のピアノにより初演された。なお翌年ウィーンの演奏会でこの作品が取り上げられたときには、フランツ・リストも珍しく顔をみせた。かつてはぎこちない関係にあった二人だが、ブラームスはリストの求めに応じて楽譜を送り、リストはお礼の手紙のなかで「正直申しますと、最初に拝見した時には、この作品は私にとっていささか響きが暗いような気がしたのですが、やがてそれは明るく澄んだものとなってきたのです」と作品の価値を認めている。・・・”(三宅幸夫『ブラームス』新潮文庫 p.135)

 

 

・・・・・・・・・

 

イマギナツィオーン/Imagination

内的な力を持つイメージ、幻視/出現/Apparition を見る。

*対極として、(うわべだけの)仮象

 

インスピラツィオーン/Inspiration

ものごとの関連/文脈を認識する。

音像/言葉のような形で、伝えられる。

*対極として、文脈イメージ/フィクション/虚構

 

イントゥイツィオーン/Intuition

意志/ヴィジョン/啓示が起こる。

*対極として、無気力

 

”・・・健全な予感において、人間の判断力をもって見通せる以上のものが人間の中にあることが示される。そのような注意深さは、心魂のいとなみを拡張させる。しかし、ここでも一面的になる可能性がある。自分の判断力を排除する習慣をつけて、「予感」に動かされるようにしようとする者は、あらゆる不確かな衝動に弄ばれる。そのような判断放棄の習慣から迷信への道程はわずかである。

修行者にとって命取りになるのは迷信である。迷信、空想、夢想から注意深く身を守ることによってのみ、ほんとうの精神生活に入っていく可能性を得る。「人間の表象によっては把握されえない」経過を体験できるのを喜ぶ者は、正しい方法で霊的世界に参入することはできない。「不明瞭なもの」への偏愛があるかぎり、修行者にはなれない。「神秘家というのは世界のなかで」、妥当と思われるいたるところに「不可解で、解明不可能なもの」を想定する人であろうという偏見を完全に捨てなければならない。修行者の正しい感情は、いたるところに隠れた力を認めるが、その際、十分な力があれば解明できないものはないということを前提にしている。”(ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』西川隆範訳 イザラ書房 p.344)

 

単に物質的な現実というのは、ない。

現実とは常に、霊/精神の顕現である。

霊/精神の顕現としての現実を観ること、それが純粋思考であり、霊視である。

つまり、純粋思考/霊視ができなければ、現実は、その霊/精神としての姿を現わさない。

そのとき私の周りには、殺伐として全く味気ない「それ/Es」が、そのような世界が、時間と空間が、どこまでも広がって/続いているばかりだ。

 

いや、純粋思考を霊視/Imagination とばかり呼ぶことはできない。

純粋思考は、イマギナツィオーン/Imagination、インスピラツィオーン/Inspiration、そしてイントゥイツィオーン/Intuition として現われる。

・・・やがて、・・・

 

”・・・しかし、イマジネーション界におけるこれらの知覚が感覚的-現実的世界におけるものとはいくらか異なったものを表現することを、認識者は知っている。それらの知覚の背後には物質的-素材的原因ではなく、魂的-霊的な原因があることを認識するのである。・・・物質的知覚の背後に素材的-物質的な存在と事実があるように、イマジネーション的な知覚の背後に魂的-霊的な事物と経過があることを修行者は知っている。

このようにイマジネーション界と物質界は類似しているが、重要な区別も見られる。・・・物質界では、事物が絶えず発生、消滅し、誕生、死滅するのが観察できる。このような現象のかわりに、イマジネーション界ではある存在からほかの存在への絶えざる変容が見られる。・・・

・・・物質的-感覚的知覚には、物質体の経過しか知覚できない。物質体の経過は「誕生と死の領域」でおこなわれる。そのほかの人間の構成要素、すなわち生命体、感受体、自我は変化の法則の下にある。それらは、イマジネーション認識によって知覚される。・・・

・・・

イマジネーション認識段階から「インスピレーションによる認識」と呼ぶことのできる認識へと発展したとき、人間は静止点に達する。

超感覚的世界の認識を探求する者は、・・・イマジネーションへ導く修行とインスピレーションへ導く修行を平行しておこなうことができる。ふさわしい時期に、修行者は高次の世界に歩み入り、その世界をたんに知覚するのではなく、その世界あの事象を解明し、理解することができるようになる。もちろん、たいていは、まずイマジネーション界のいくつかの事象が修行者のまえに現われ、その後しばらくして、「わたしは方向を定めて、これらの事象を解明しよう」と、感じる。

・・・インスピレーションをとおして、変化する存在の内的な特性を修行者は知る。イマジネーションをとおして、修行者は存在の魂的表明を認識する。インスピレーションをとおして、修行者はその存在の霊的内面へと入っていく。なによりも修行者は、霊的存在がたくさんいること、霊的存在のあいだにさまざまな関係があることを認識する。・・・ある存在ともうひとつの存在の内的な性質をとおして、両者のあいだの関係が成立しているのである。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』西川隆範訳 イザラ書房 p.328~331)

 

”・・・福音書という形で残っている古代の文献が書かれた時代に、もはやミカエル自身は人類に霊感を送ることができませんでした。私が『神秘的事実としてのキリスト教と古代の密議』に書いたとおりです。ミカエルの仲間の大天使たちをとおして、人類は多くの心魂の力を無意識に、霊感をとおして受け取りました。

福音書の筆者自身も、明確な秘教的認識を有していませんでした。ミカエルの霊感は、ゴルゴタの秘儀ののち、終了したからです。ほかの大天使、ミカエルの仲間たちは、ゴルゴタの秘儀を理解可能にするように霊感を送ることはできませんでした。キリスト教の教義のさまざまに片寄った解釈が、そのことを示しています。それらの教義の多くは、ミカエルの仲間たちから霊感を与えられたものです。それらの教義は、ミカエル自身から霊感を受けたのではありません。それらの教義とミカエルの霊感との関係は、諸惑星と力強い太陽の関係と同じです。

今日ふたたび、ミカエルからの直接の霊感が存在しています。ミカエルの直接の霊感は、16世紀から準備されました。その時代、ミカエルのそばに立つ大天使が、人類に霊感を与えました。その霊感は現代の自然科学を完成へと導きました。今日の自然科学は、ミカエルの霊感に由来するのではなく、ミカエルの仲間であるガブリエルに由来します。この科学的な霊感は、物質界のみを理解させ、物質的な脳と関連する見解を作り出す傾向がありました。

この20~30年来、ミカエルは学問に霊感を送る者の地位にふたたび就きました。これからの200~300年で、ミカエルは精神的な意味で非常に重要なものを世界に与えるでしょう。16世紀以来、段階的に発展してきた唯物論的な科学よりも遥かに重要なものを、ミカエルは世界に与えます。ミカエルの仲間の大天使がかつて世界に科学を贈ったように、ミカエルは将来、私たちに霊的認識を与えるでしょう。その始まりに、私たちはいます。”(ルドルフ・シュタイナー『エーテル界へのキリストの出現』西川隆範訳 アルテ p.125~)