人はだれもが、自分の自我/意志を担って、この世に誕生する。
この自我/意志は、低次の自我/第二の自我ではない。いわば、赤子のような高次の自我である。
この高次の自我は、その人独自の課題を担っており、この地上生を通して、その課題を実現しようとする。
輪廻転生の過程の中で、その人の課題は(少しずつ)成就されてゆく。
ひとりひとりのその在り様(ありよう)は異なっている(グラデーションを呈している)とは言え、一言で言えば、その課題とは ”自由の霊 Geist der Freiheit” に成ることだ。
そして、すべての個人のカルマ的課題が、 ”自由の霊 Geist der Freiheit” に成るという人類的・宇宙的テーマにつながっている以上、・・・この世で営まれるどの人生にも、本来的な(宇宙的な)価値と意味がある。
つまり、すべての個人のいわば赤子のような高次の自我の中に、”キリスト衝動 Christus-Impuls” が働いているのである。
何らかの状況、何らかの場面、何らかの出来事、・・・そうした言わば聖別された機会に、他者の中に、そして無論(むろん)自らの魂の内奥に、”キリスト衝動 Christus-Impuls” を感得した時、その人の魂は必ずや、温かくなり、世界と他者への共感で満たされるのである。
”キリスト衝動 Christus-Impuls” を感得した魂の内に湧き起こってくる、このような世界と他者への共感の感情を、”愛 Liebe/アガペー ἀγάπη” と呼ぶ。
”愛 Liebe/アガペー ἀγάπη” は、ルシファー由来ではない。キリスト由来である。
そして人間は、”愛 Liebe/アガペー ἀγάπη” を感得する力を、他ならぬキリスト存在によって与えられているのである。
人がまだエデンの園にいて、そこでルシファーに誘惑され、園の中央に生えている善悪の知識の木からその実を食べて以来、人は情念と幻想(イメージ)の虜になり、・・・自らの魂の内にイメージ体/文脈イメージという虚構を構築することによって、この地上の世界を生きるようになった。
”自由の霊 Geist der Freiheit” へと成長してゆく上で、イメージ体/文脈イメージは大きな障害である。
イメージ体/文脈イメージは、低次の自我/第二の自我である。そこには、アーリマンとルシファーが生きている。
だが、紀元1世紀のキリストの出来事(Christus-Ereignis)/ゴルゴタの秘蹟からこの方ずっと、この地上の世界を生きるひとりひとりの人間の魂の中には、キリスト衝動を内に秘めた赤子のような高次の自我が輝いている。
つまり、低次の自我/第二の自我であるイメージ体の殻を破り、本来の自我/高次の自我/キリスト的自我が、魂の空間に現れると、人は ”自由の霊 Geist der Freiheit” への歩みを大きく前へと進めることができるのである。
低次の自我/第二の自我としてのイメージ体が、例えば何らかの悲劇的な出来事によって危機に晒されると、本来の自我の中に生きるキリストが働き始める。